第44話 運命。

聞くべきか……。

言うべきか……。


余裕は、それがどうして口にすることができないのか、分かっているようで、分かっていないような感じがして、どうにも、その違和感が気持ちを、悪くする。


「長袖でも同じ色なんですね、ツナギ」

迷いの目。

どうして、椎がそんな目をするのか余裕は不思議に思う。


「絵に興味あったんですね、新木さん」

「あ、違う違う! 俺はそんなじゃなくて。あいつ、さっき一緒だったのが好きだから、それで!」

どうして自分がここまで焦ってしまっているのかと、混乱する。


「ふふふ、どうしてそんなに焦ってるんですか? 変ですよ」

そう言って笑った椎の目は、それでも何かに迷っているような不安な瞳で余裕を見つめてしまう。


「ギャラリー、……見て、いきますか?」

なにかにつまずくように出した声。

それでいてもなお、椎はまっすぐに見つめようとしてくる。


「見せてもらえる?」

嘘なんて言えるわけがない。

誤魔化すなんてことできるわけがない。


余裕は、なぜここに来たかったのか。その理由だけは分かっている。

ダサいトレーナーに、汚い手。

福耳まではっきり確認することができるほど、短く切られた髪。

なんでか、それが妙に似合っていて、可愛いあの子。

荒木静。

静の描いた絵を見たいと思ったから来た。


「もちろんです。でも、その前にもうひとつ聞いてもいいですか?」

「え? うん」

「このギャラリーに飾られている絵の作者のことは知ってますか?」

「……知ってる」

「そうですか、すいません、変なこと聞いて」

「いいや」

「それじゃ、案内します」

椎は、上向きの矢印ボタンを押し、開いたエレベーターの扉を押さえると、余裕を中に招き入れ、S・Sのある、静の絵が飾られているギャラリーがある階のボタンを一瞬ためらってから、ゆっくり、弱々しく押した。


久々に乗ったエレベーター独特の縦Gは余裕を童心に帰らせた。

「ジャンプとかしちゃ、」

「ダメです」

少しだけ怒った椎の声に、余裕は少し嬉しくなる。


「俺からも聞いていいか?」

「……はい。私が答えられる範囲のものでしたら」

「一室だけとはいえ、あの子がどうしてこんな立派なマンションにギャラリーを構えることができるんだ?」

「ああ、それは、ここが妹が元々住んでいた部屋で、しずかちゃんは妹の昔からの友人だからです」

「へえ、そうなんだ……?」

答えてもらえることはできたが、余裕はなんだか納得できずにいた。

「ん? 「しずかちゃん」ってことは、君も、彼女のことよく知ってるんだ」

「はい。実は妹はそんなに絵に興味が無いんです。でも、ずっと一人で絵を描き続けるしずかちゃんを応援したいからって、契約を切らずに借り続けてるんです」


キン。という相変わらず高級な音が鳴り、エレベーターが上昇をやめると、ドアが開く。

「付いてきて下さい」と椎は余裕に言って前を歩いていく。


「そうなんだ、あの子がねぇ……」

余裕は、病院での枢とのやりとりの数々を強制的に思い出してしまう。

「ここです。って大丈夫ですか?」

突然、冗談で大げさに膝を付いた余裕に、部屋に着いたことを知らせようと振り向いた椎が駆け寄る。

「大丈夫、なんともないから」

椎の本気で心配してくれている声に余裕は俯いた顔をなかなか上げられずにいた。


本気で心配になった椎が覗き込むようにして余裕の顔色を伺う。


椎のした咄嗟の行動は、自分の顔を余裕の顔に今までで一番近づけてしまったことになる。

俯いた顔を余裕が上げようとする。

余裕は気づいていない。このまま顔を上げて椎の表情を確認するということがどういうことになるのかということを。

髪の毛だけしか見えていなかったのが次第に、額、眉毛、鼻、唇と、気づけば、椎と余裕の間には、乾いた秋風がかろうじて通り抜けられるほどの隙間しか存在していなかった。

気圧が下がったように、二人の顔が近づく。


一瞬、余裕は自然と瞑っていた瞼を上げる。


椎も同じに目を閉じている。

その瞳から一粒の涙が溢れ落ちたのが見えた。

涙を親指で優しく拭う。

椎の吐息が小さくなる。

余裕は、ファンデーションのついた親指の手を膝に置き、立ち上がった。


「ごめん」


その言葉を余裕が言ったころにはすでに椎はしっかりと目を開けていた。

首を左右にゆっくり一回ずつ振ると、笑顔だけで答えた。

椎は余裕の膝に付いている自分のファンデーションに気づく。

涙と混ざったそれは、澄み渡るような浅葱色の空に、季節の移り変わったことを知らせる夕焼け雲のように浮いていた。


「私、冬の始めにはもう日本にいないと思います」


突然の椎の告白。


意図して口を動かさないように言い放たれたその言葉はこもっていて、余裕のところまで届いてほしくないことを、十分に理解できるほどだった。


余裕は、「ごめん」言った自分はなんて卑怯なんだと後悔する。

ずっと誤魔化していた。

ずっと嘘をついていた。

してはいけないと思っていたのに。

ついていないかと確認までしていのに。


「オーストラリア支社への栄転です」

「うん」

「父の……社長の指示で」

「うん」

「やりがいのある仕事です」

「うん」

「私も本気で……」

「うん」


これ以上椎だけに話させてはいけないと、余裕は自分に強く言い聞かせる。


「夢、だったんです。私にどれだけの力があるのかを知ることが」

「…うん」


余裕の「うん」。

それはもはや、返事にもなっていなかった。


「少しだけ、昔の話しをしてもいいですか?」

「……うん」

「私が、新木さんを好きになった話しです」

椎が視線を北の空へと移す。


「さっきまであんなに天気良かったのに……」


その椎の声に、余裕は反応すら出来なくなってしまっていた。


秋のものとは思えない冷えた東風が強くマンションの廊下に吹き込む。

北の低雲ではたまに、稲光が白く暗い雲中を照らしていた。

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