第43話 天才。
『明日、この美術館で四季の個展がある。行ってほしい』
昨夜、いつも通りに羽生のところへ絵の指導のため向かうと、静はその一言を言われ帰されてしまった。
「また二人して塩作戦か?」
「行ってほしい」とまで言われたことで、なにかしら魂胆があるのではないかと、珍しく静は考え込んでいた。
ここ最近の羽生の熱心かつ、辛抱強い指導によって、静の絵のレベルというものが確実にに上がっていた。
持って生まれた才能の勢いのみで絵と向き合っていた静にとって、強制的に、理論と知識をインプットされたことは、その才能を磨きに磨かれ、今やダイヤモンドの如く、強固に、きらめきつつあった。
「あの人の絵なんか見たら、描かずにはいられなくなるだけだよ……」
手首の骨折は、痛みはほとんど感じなくなってきてはいるが、いくらそのことを羽生に伝えても、初めて指導を受けた日に描いた、あの車の写真を模写した一枚だけで、それからは、一枚も描かせてもらえていなかった。
『鈴鹿四季』
その名前は静にとって、どうしようもできない存在になりつつある。
S・Sで会ったあの時。
四季は、自分の絵に題名を付けていない静に向かって、「勝負していない」と言った。
羽生から、四季からの電話の一声目が「ムカつく」だったと聞いた。
それは、静が四季と会った日、部屋に戻ってから出した一声目と同じだった。
以前静が、羽生に自分の絵を見せた時「これだから絵描きは」と涙ながらに呟いたことがあった。
それなのに、あの時静は羽生の感情を全く読み取ることができなかった。
四季と羽生、この元夫婦は静にとって、
怒りの対象
恐怖の対象
だった。
「逃げるわけにはいかない――憧れの対象から」
電車で一時間弱。
そこから市営バスで約45分。
目的地である鈴鹿四季の個展の催されている美術館は山奥、突然ドカンとその存在を静に知らしめてきた。
「先手必勝ってわけね」
自分が緊張していることをしっかりと認識し、敷地へと足を進める。
緑の大きめなワンショルダーリュック。
白地に赤一本と紺二本の斜線の入ったスニーカー。
茶色のチノパン。
上半身は、何年も着ている襟のよれたTシャツに、防寒対策として手まですっぽりと隠れるほどオーバーサイズの薄青色のジャンパー。
適当にセットしたヘアースタイルに、ノーメイク。
「そうだ……、これ……」
入り口手前で突然静が立ち止まる。
少し迷ってから、右手首の包帯をほどき、ギプスを外す。
「邪魔、だよね」
二、三回ぶらぶらと右手を振ると、その手で入り口のドアを引いた。
中に入ってまず目にしたのは、500号サイズのキャンバスに、
『天才の余裕 鈴鹿四季』
と、毛筆で殴り書きされた看板のようなものが受付前に置かれていることだった。
「チケットの確認をさせていただきます」と、同年代くらいの女に声を掛けられて、静がポケットからは羽生にもらったチケットを取り出す。
「あれ?」
そこには、『Genius』と書かれていた。
「これで合ってます?」
思わず静は受付に確認すると、
「申し訳ありません。はい、このチケットで合ってますのでご心配なく」
と返され、どうして違う名前なのかと不思議に思いながら、拍子抜けする。
あまりの会場の広さに、順路がどこからか静が迷っていると、前から全力疾走でひとりの女が近づいてきた。
「あの」と声をかけようとすると、
「あのわがまま女王が! いまから個展名変更なんてふざけんな! ただでさえ」
とぶつぶつ良く通る声で呟きながら、静には目もくれず、蒼白の顔面でそのまま走り去っていってしまった。
しょうがなく静がもう一度受付に戻ると、
「よかったら、パンフレットいかがですか? 順路と、今回の作品の題名、簡単な説明も載ってますので」と聞かれ、余計な出費ではあるものの、題名というワードに負けて購入することになってしまった。
「まずい、やつのペースに呑まれてる」
開いたページを見ながら、静は毛筆の看板を軽く小突いた。
今回の展示数は77作品。
『鈴鹿四季作品、最大の展示数とスケール。あなたは、この世界に呑まれる他無い』とパンフレットが謳っている。
その数は、静にしてみれば、そう多いというほどでもなかった。
「上等! 呑まれてやろうじゃない」
静は本腰を入れ直して、1つ目の作品を目指し勇む。
『No.1 桜』からはじまる今回の四季の個展は、春夏秋冬をテーマにしてることが一目瞭然だった。
陽気に描かれた春。
活気に描かれた夏。
妖艶に描かれた冬。
そして、どうしてか、最後が
繊細に描かれた秋だった。
『No.77 月』
最後のその絵を視た瞬間、静はそこから動けなくなってしまう。
「これって……太陽?」
204✕298センチメートル四方キャンバスの完全な中心に赤橙色の輪郭線。
丸で描かれたそれは三尺ぴったりで、色は塗られてない。
さらに言えば、色と言えるものがその輪郭線意外他に存在していない。
それは、キャンバスにただ丸を描いただけの絵とも呼べないものだった。
「月って……、どうしてこれが」
月という題名の絵。
赤橙、その色を静は瞬時に分解する。
ほとんどが赤、そこに赤の三分の一の緑、最後に僅か、ほんのわずかの、無きにしも等しいほどの……青。
三尺。
90.9センチメートルで描かれた円。
綺麗というには足らない、具現化不可能と言われている真円のような円。
静は眼球がキャンバスに付くのではないのかというくらいに顔を円の線に近づける。
「フリーハンドだ」
線の太さは完全に同じ幅で描かれていたが、赤橙色の濃淡がわずかに違っていた。
静はこの『月』という絵がとても好きになってしまった。
それは、『技術』というものの極みを見せられたからだった。
荒木静の絵のスタイルは、風景画。
自分の目で視たものを描く。それが静の絵。
なんの仕掛けも、面白みもない絵だ。
だが、しかし。
そこに、色という要素が加えれば、それは、たちまち、静の絵に成る。
そして、今回の四季の絵。
鈴鹿四季の絵、それは、技術のオンパレードだった。
風景、静物、肖像、博物、宗教、歴史、風俗。
それらの絵がすべてあり、そのすべてが、それぞれに於いて、画家という世界での超一流と呼んでも過言ではなかった。
そこにきて、この『No.77 月』を見せられ、魅せられてしまった。
他の大勢の客たちは、一定のリズムで見て回り、時折気に入った絵の前で立ち止まると、様々な表情で四季の絵を見ている。
けれど、この『No.77 月』の絵の前で立ち止まった人間は静だけだ。
その後ろを、高級そうな服装をした小綺麗な中年の男二人が通り過ぎる。
「この絵はダメだ。完全な駄作」
「ですね。鈴鹿四季もこういったのに手を出しちゃおしまいですね」
それを聞いた瞬間、静は怒りを覚えてしまう。
思わず睨みつけて、一言「この絵がどれだけ良い絵なのか分からないの?」と罵ってやろうと思ったが、目の前のこの絵に向けた視線を移すということが、どれだけ無駄で、馬鹿げているのかと、瞬時に思い留まる。
「おい、あんた」
二人のうちの恰幅の良い男が突然静に声を掛けてきた。
静は無視をする。
「おい! そこの女、聞こえてるか?」
押さえ気味だった口調を強める。
「なにが良いのか知らんが、この絵は子供だましみたいなもんだぞ」
それを聞いてもう一人の男がクククと笑う。
「ははーん、もしかしてお前、自分に酔ってるな?」
静は自分がなにを言われているのか分からない。
「わたしずっと見てました。この子、この絵の前からずっと動いていませんでしたから目立って目立って」
「はんっ! 自分だけはこの絵分かってますって感じか! こういうやつはどこにでもいやがるな」
「いますいます。まったく、こんなもの絵なんていえないようなものなのに」
「はははっ、だよな」
バカにされていることは分かる。
けれど、静は、どうして自分がこの絵を分かっているということがわかるのか。という考えもあった。
あったが、今回はその二つのうちのバカにされているという怒りが勝った。
今度こそ思いっきり睨みつけてやろうと、感情に任せて頭の向きを変え、いま最もしたくないこと、四季の絵から視線外す。
すると、その瞬間、
「お客様。当館内での私語は禁じられております」
と、きれいな、よく通る声が聞こえてきた。
それを言われた二人組は、始め怒りをあらわにしたが、注意されたことを他の大勢の客たちに笑われていることに気がつくと、スゴスゴと足早に退散していった。
となれば、必然的に静の視線はその声の女に向けられる。
「申し訳ありません。わたくし、今回この個展を企画させていただいたキュレーターの
静がどんな顔をしていいのか迷っていると。
「お客様は荒木静さまですね」
と満面の笑みで言われた。
よく見ると、額に少しだけ汗をかき、ほんのりと紅潮した顔色をしている。
「あ!!」
静がその人物を思い出す。
「しっ! 私語禁止です」
波が口に、立てた人指し指を当て、静のことを注意する。
まわりから、くすくすと笑い声が聞こえてる。
それはあの二人組のした嘲笑ではなく、静な館内を一瞬明るく、賑やかにするようなものだった。
「なるほど、そういうことですね」
波は独り言のように静に言った。
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