第42話 ――再会。
「どうしてわざわざ着替えに戻ったんですか?」
啓介の質問だと思われる、今いちばん聞かれたくないことを言われた余裕が敏感に反応する。
「ん? そりゃなにか手伝えることがあるかもしれないじゃないか」
余裕は意識して目を合わせないようにする。
「ふーん……そうですか」
それを聞いて啓介が納得していない声を出す。
昼食を終え、二人は静に渡された地図を頼りにギャラリーへと向かっていた。
「あとどれくらいだ?」
「暑くないですか? 長袖だし。絶対さっきのほうが楽でしたよね」
「暑くないし、こっちのほうが楽だよ。つうか、うるせえ」
余裕がツナギの袖をクイっと正す。
「そろそろだと思います……あ! あれです」
啓介は確認するように、何度も地図と目的地だと思われるマンションを繰り返し見比べる。
「でかいマンションだな。全部がそうなはずないけど、このうちの一部屋だとしても結構広そうだよな」
「ですね。どういう経緯でギャラリーを持ててるんですかね?」
「パトロンでもいるんじゃないか?」
「うーん、どうですかね。静さんとは何回か世間話したことがあるんですけど、そういう感じじゃないんですよね」
「そういう感じって?」
「なんというか、自分だけの力でなんとかしようとしてるというか」
「そんなこと、どうして分かる?」
余裕の問いかけに、啓介が呆れた表情をする。
「似てるんですよ、雰囲気が。言葉の抑揚とか、どんなふうに他人を見てるのかとか」
「だれに……」
「なにとぼけてるんですか?」
「俺……か」
啓介がうなずく。
マンションの入り口にはエントランスがあり、その入り口は、観音開きの大仰なガラス戸で閉められていた。
啓介がそのドアを重そうに引く。
エントランスに入ると、ひとりがけの椅子が二脚と、その間にテーブルが一台置かれている。
「ここで食えたな、昼ごはん」
「ここはそういうことに使うようなところじゃないんですかね」
二人は、なんだか場違いなところに来てしまったような、なんとも言えない気持ちになる。
「これってオートロックだよな。部屋番号は書いてあるのか?」
余裕が、インターホンらしきものを指さしながら言う。
「はい」と言って地図の書かれた紙を啓介から渡され、余裕が初めてそれを目にする。
静から渡された紙には、緻密に書かれているが見やすくまとめられ、矢印はしっかりと定規で引かれていて、そこに書かれた文字は異様に綺麗で丁寧に書かれていた。
「静さん、字上手ですよね。意外って言ったら悪いけど、画家の人ってなんか字とかに頓着しなさそうじゃないですか」
「これ、彼女が書いたやつじゃないよ」
「え?」
また冗談をという表情を啓介はするが、いたって真剣な顔で余裕が続ける。
「というか、この地図書いた人を知ってる」
「誰ですか?」
「俺の…………、うちがよく受ける元請け会社の人」
「女性ですか?」
余裕は、啓介がどうして今そんなことを聞くのだろうと、「ああ」とは答えたものの、だからどうだというのだと、なぜか怒りを覚える。
「まあ、今は関係ないことだから。ええっと、番号は――」
自分の気持を紛らわせるように、その字で書かれた数字を余裕が押す。
『はい』
その声を聞いて余裕が答える。
「……新木です」
『え』
インターホン越しのその声はすでに迷っていた。
「余裕さん、どうしたんですか? 新木って、なんで自分の名前を」
「啓介悪い」
突然余裕が啓介に向かって両手のひらを合わせ、目を瞑った顔面に強くはり付ける。
「今日は俺一人で行かせてくれ!」
「どうしたんですか、どうして」
「本当に悪い。ごめん。このことは今度説明する。埋め合わせもさせてもらう。だから頼む、今日は」
顔面にはりつけた両手と、瞑った目の力をさらに強める。
「わかりました」
「ごめん。ありがとう」
余裕は、両手をほどき、しっかりと啓介の目を見て言った。
「約束ですよ。今度はパン屋の時あの時の顔じゃ済みませんから」
そう言いながら啓介は背を向け、大仰な観音開きのガラス戸を軽く引いて玄関フロアから道路に出ていく。
余裕は、啓介の開けたガラス戸がゆっくり閉まるのを待って
「バレてたのか……ありがとう」
と呟いた。
「開けてくれる?」
『どうしてここに?』
「いいから……開けてくれ」
『……はい』
なにかしらの機械音の後、ガシャっと鍵の空いた重々しい音がエントランスに響いた。
『どうぞ』
「ありがとう」
そう言って、余裕がゆっくりとエレベータ前まで歩いて行くと、上の階からエレベータが降りてくるところだった。
3……2……1。
その一部始終が余裕にはカウントダウンに思えてくる。
キンという上品な音がし、さっきまで空洞だった場所に見覚えのある影が、もう一回り小さな箱の中に入って目の前で止まる。
「こんにちは、お久しぶりですね」
「久しぶり、今日はちゃんとしてるんだな」
一瞬、椎の表情が緩む。
「ああ……はい。店番なんで、接客のために」
椎は余裕の瞳に映った自分の姿を確認する。
「変ですか?」
「いいや、そっちのほうが君らしいよ」
余裕が微笑みかけると、椎は少しだけ崩れた笑顔をした。
「ギャラリーのことは、先程まで一緒にいた方から聞いたんですか?」
「うん。あ、いや」
「え? じゃあ誰から」
「さっきまで一緒にいたのは俺の、うーんっと、先生? 師匠? まあ、そんな人の息子で、小さい時から知ってるやつだよ。絵が趣味でね」
「ふふ、相変わらず変な物言いの仕方ですね。そうなんですか。でも、いいんですか?」
「うん? まあ、埋め合わせはするって言っておいたし、大丈夫」
久しぶりに見る余裕の顔。
『しっかりメイクをした顔を初めて見せれた』
椎はもう一度心の中で確認する。
『好きです』、と。
あの夜、自分の言ったその言葉を、言われた余裕がどう思ったのか。
いや、そうではなく。
本当はどう思ったのか。
自分の指を解き、握られた感触。
それまで震えていた体が、余裕の肩に触れた途端に治まった。
自分だけのことだけで精一杯で、余裕がなかったあの時。
朝までドライブした時間は夢のようで、けれど、その感覚を一生懸命に消そうと努力した。
今、目の前で困ったように笑うひとのことを、どうしようもなく好きなんだと。
椎は、表情に出さないようにすることで精一杯になる。
椎は苦し紛れに、観音開きのガラス戸から見える外の景色へ視線を移す。
『まだ熱が残っている砂粒。
汗で湿ったシャツはすこしだけ臭かった。
狹い軽トラの車内は、二人の距離を必然と近づけてくれた。
心地いい振動に、眠りそうになるのを必死で我慢した。
余裕がちらっと腕時計に眼をくれるたびに、助手席で泣きそうになった。』
ビル風が街路樹の葉を落とし、雲ひとつない空へと持ち上げていく。
「袖のところ、汚れてますね」
椎は、移り変わった季節を実感する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます