第41話 狂気。

水と油という言葉がある。

言葉のとおりでいうならば、決して混ざることのないもの。

転じて、調和しない、性分が合わないといった人間関係のことを示す。


この二人にもそれが当てはまる。


天才と天才だからだ。

それも、昔ながらの荒唐無稽な天才。

ただ単純に面倒くさい、たちの悪い人種。


「この色はどうしてこの色だと思う?」


火に油を注ぐという言葉がある。

言葉のとおりでいうならば、今あるその火を増幅させる。

転じて、ただでさえ危険なものに勢いをつけ、事態を悪化させること、やってはいけないことを示す。


「それ以前に間違ってます。この色じゃ」


天才と天才。

混ざり合うことはなく、危険を承知しない。


「あ、でも、この絵のここは良いですね、とっても。好きです」

「分っかる! そうなんだよ、この絵はここがこの色だから良いんだよね」

「ですよね!」

「うんうん、さすがしずかちゃん」


ついさっきのことをまるでなかったことのように、混ざり合い、考えという火を刹那で消す。


「しずかちゃん、その怪我はどのくらいで治るの?」

「3ヶ月」

「どのくらいで描けるようになる?」

「今」

「そっか。今どんな絵を描きたい?」

「車」

「意外、車かぁ。どんなの?」

「燃えてる車」

「色は?」

「青……、というか」

「余裕色?」

「そうです」

静が羽生からその瞬間意識を逸らす。


「もしかして――」

「どうだろう?」


恋は盲目という言葉がある。

これは読んで字のごとくなのだが。

けれど、ある天才劇作家、個人の作ったものだった。


「あの月も、描きたい車も、それに――あの人も。同じ色で見えたんです。はっきり、くっきりと。その人の名前なんです」

「余裕」

「はい」

「羨ましいし、嬉しいね。なんか」

「そんなもんなんですかね」

「そうだね、そんなもんだし、そんなとこ」


届くどころか、響くことすらない。

混ざらないし、知ったところで「違う」と火に油を注ぐだけ。


「僕が言うのもなんだけど。しずかちゃんの夢って」

「夢というか、目的ですね」

「どんな目的?」

「世界一の画家。とかじゃなくて」

「じゃなくて?」

「世界一は世界一でも、絵を描きたいと思って絵を描いている人たちのなかでの世界一です」

「それって、性別年齢関係なくってこと?」

「当たり前です! この間、スケッチブックをあげた女の子も、いま絵を描くことをしているならあの子もです」

「僕も?」

「羽生さんがまだ絵を描きたいと思っているなら……そうですね」

「そっか」


羽生はゆっくりと自分の描いてきた作品を見回す。

黒を基調とした絵が多い。そのことに気づく。

昨日までその絵たちは、ひっそり、なにかに怯えているようにしていた。

それが今は堂々と、黒とは本当はこうだと言わんばかりに主張し、黒光りさえしている。


「いつも聞かれる側だから、こうやって色々聞けるのは久しぶりだね。新鮮でさえあるよ。だから、もう一つぐらいいいよね?」

「はい。なんですか?」

「絵を教える以上は聞いておかなくちゃいけないこと。だし、僕自身が興味があることだよ」

ゆっくりと羽生が口角を上げる。

合法的に聞けると。


「弱点は?」

「……教えるわけないじゃないですか。聞いてなかったんですか? 言ったじゃないですか、絵を描こうとしているひとは全員敵だって」

真剣そのものの顔で、斬りかかるがごとく睨みつける。


「その、余裕、くん。には会ったことがあるの?」

「はい、あります」

「なにか喋ったことある?」

「はい。あります」

「へえ、なに喋ったの?」

「覚えてません」

「へ?」

「でも、楽しかった」

「……そうか、それが君の本物の顔か」


羽生の見たことのない、それどころか誰にも見せたことのない顔を静は無意識にする。

作った顔ではない。

した顔。

それは、できた顔でもあった。


「うん! よし、わかった」

「なにがですか?」

「ん? 君の弱点だよ」

「聞かせてください」

「そうはいかないよ、これから君と僕は敵どうしになるんだから」

「でも、そうなると、敵から絵を教わることになってしまうんじゃ」

「そこはあれだよ、『敵に塩を送る』ってやつだね」

「夫婦でとは卑怯ですね」


自己完結している静。

プラスという現象は外からではありえない。

幼かったあの時、自宅での酔客とのあのやり取りは違った。

自分の頭にジョッキを振り下ろされて流血したことで生まれた色が外からのものになるわけがない。

「すごい! こんな色始めて。おじちゃん、ありがとう」

あの言葉は、意識を失う寸前に出た言葉だった。

自己完結させるために。


「混ぜるのは難しそうだね」

「混ざりますかね?」

「死ぬ気で頑張るよ」

羽生は、苦しそうに笑顔を静に向ける。


「では、次は……」

天井まで届いている本棚から一冊の雑誌を引き抜き、目見当ではあるものの、確実にそのページをめくり出す。

「字がいっぱいで、ごちゃついてて、なんていうかダサい」

時代遅れなデザインの表紙を見て言う。

「君、自分の格好見たことないの?」

羽生にそう言われて、静は大きな目をさらに見開く。

「ふー、まあいいや。はい、これ」


羽生が静に見せたページには見開きいっぱいに車の写真が載っていた。


「いまから、これを30分で模写して」

「どうして」

「いいから、黙って描いて」


そこから二人は無言になる。

手取り足取りなど虚無でしかない。

この水には、むなしさ、かなしさは似合わない。

かといって、もえるような情熱や、焼けるような情念は過多になる。

水はただ静に、ゆっくりと佇み、様々な形態に流動的に変化していける。


「できました」

「見せて」

「はい、どうぞ」

静は少し緊張している。

ここまでできたての絵を他人に見せたことがなかったからだ。


スケッチブックを受けった羽生が驚く。

確かに熱を感じる。と思った瞬間、紙の持つこの時期本来の温度を感じる。

次に、恐る恐る鉛筆で書かれた輪郭を指で撫でる。

錯覚だろうか。

心地よいくらいな冷たさを感じる。

少しだけ指に力を込める。

カーボンが結露した指先の水分でボヤける。

あ。っと、一瞬羽生は後悔に苛まれる。しかし、指は動かし続ける。


「消えない」

そのほとんど声にならない感想が羽生本人にだけに聞こえた。


「じゃ、修正していくね」

無言で静が頷いた。

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