第40話 情景。
「すいません。少ない時間で最高の仕事をしてくれたのに」
朝イチのディーラーのガレージには四つの影が伸びていた。
「くくっ、やっぱりその顔になるんだな」
脇坂も同じような顔で皮肉る。
「なんで笑えるんですか! 余裕さんも余裕さんです! よくこんな状態の足で平気な顔してここまできましたね!」
いちいち語尾を強めて土屋が必死に怒る。
「そんな言い方はこれ見てから言えよ、ツチ」
啓介がストップウォッチを土屋に見せる。
「そうか……切ったのか二分」
「ええ。島さんのおかげですけど、それに……この足を組んでくれた土屋くんのおかげでも」
余裕は、そのままの表情で土屋のことを見る。
途端に、土屋が顔をまっかする。
「いつわかった?」
脇坂が余裕のよく知っているあのときの表情で言う。
「普通に乗ってる時はわかりませんでした。けど、いざ全開で走り出した瞬間に。あれって感じじゃなくて、対応しなくてはって感じで」
「褒めすぎだろ」
皮肉顔に戻る。
「なかなか苦戦したよ。あれだけの相手とやり合いながらだからね。でもどうして、あそこまで柔らかくした?」
子供のような表情で余裕が土屋に聞く。
「……タイヤです。」
自信なさげに土屋が答える。
「タイヤ? ああ、なるほど」
余裕が横目に絶好調のFDのタイヤに目をやる。
「フラットスポット」
「またできてますね。一体なにをしたらこんなことがおこるんですか? 駆動輪だけならまだしも、四輪すべてなんて……聞いたことも、見たこともないですよ」
「くくっ、まあ、色々あってな」
二人の会話を、脇坂が優しく眺めていた。
「よし、早速はじめるか! 土屋、奥に運んでくれ」
「はい!」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げながら余裕が言う。
「ああ、任せろ。なにか要望はあるか?」
「そうですね……足にいくつか。今よりももう少し固めに、あとはECUのリセッティングを」
「そうか、それがお前の出した答えか」
「……はい。またお願いします。面倒で割の合わないやつですけど」
「くくく、ああ、ほんとだよ、まったく」
夏のムシムシとした熱い空気は、その性質上密度が薄まる。
そんな空気が冷め、乾燥し、濃くなっていく。
すると必然的にエンジンパワーが上がる。
それは、決まった吸気面積により多くの空気を取り込めるようになるからだ。
燃焼効率の向上が、鬱屈し、やりきれなかった思いを晴らしていく。
本来持っている力。
使い切れていなかった力。
自らセーブしていた力。
「開放してもいいんだな」
余裕は、高く澄み切った空にただその言葉を息をするように吐いた。
「啓介、朝飯行くぞ!」
「あ、はい!」
うれしそうに啓介が余裕の呼びかけにこたえた。
「土屋くんのこと知ってるのか?」
「ええ、高校の同級生で。あと……」
啓介が一瞬口ごもる。
「あと? なんだ?」
少し急かして余裕は聞く。
「うちの最後のメカでした」
「……そっか」
二人は、日中まだ暑い陽射しの中、国道沿いを歩いていた。
「最後のメカ」と啓介に知らされ、それが何を意味するのかすぐに余裕は理解していた。
「どのくらい一緒にやった?」
「一年ちょっとです」
「つーことは、洗車からやっと整備に移るくらいだな」
「はい。親父、ツチに最初に整備まかせたのが足回りだったんですよ」
「いきなりか!?」
「ですよね、そうなりますよね」
「なんでだろう?」
「多分ですけど、ツチを採用した時から……正確には、うちに来た日からだと思います」
「なんか、正志さんらしいな、それ」
二人は笑顔を見せ合う。
「車で来たのか」
「はい。ちょうどその日、僕もうちにいて、親父と遅めの昼飯食ってて。そしたら、ツチの車が入ってくるのが見えて、あ!」
突然啓介が指さした。
その先には最近出来たばかりのパン屋があった。
「はあ!? パン? 俺結構腹減ってるんだけど」
「あーあ、そんなんだから彼女できないんですよ。親父も心配してましたよ、いつ孫見せにくるんだ? って」
「なんだそりゃ、それはお前がかけられる言葉だろう?」
「一緒にしないでくださいよ、僕いますから、彼女」
「まじか……」
「ということで、いいですよね? パンで」
「はい」
納得させられて入ったそのパン屋は、最近のパン屋のわりに、その最近の流行りを完全に無視しているラインナップが結構あった。
余裕はハンバーガーとたまごサンド、それとソーセージをフランスパンで挟んだものを選んだ。
「中学生じゃないんですから」と啓介に軽くバカにされ、「なら、お前はなににするんだ?」とトレイにのせられたものを見ると、そのほとんどが余裕の食べたことのない類のパンばかりだった。
「一緒で」と会計をすると、予想していた金額より高かったことを啓介にバレないように後悔して店をあとにする。
大通りから外れ、小さな公園で買ったパンと、缶コーヒーで遅めの朝食をとる。
「さっきの続きは?」
ハンバーガーで口の周りをベタベタにしながら余裕が聞く。
「余裕さん……その顔は僕に向けるものじゃないですよ」
「?」
はぁーあ、と啓介は空を見ると、「続きでしたね」と堅いパンをちぎって口に入れる。
「……うん、うまい。それでですね、ツチの車が通りからうちに入る乗り入れの段差をまたいだ挙動を親父が見て、「採用するか」って」
その話の結末は、余裕の思っていた通りだった。
啓介も、朝食をとりながら程度の内容だと分かって話した。
なにかの葉っぱの乗ったパンを美味しそうに食べている啓介をみて、「一口くれ」ともらったそのパンは、余裕の口には合わなかった。
「これまずいぞ」とかわりに、たまごサンドをひとつ啓介に渡す。
啓介が一口たまごサンドを食べる。
「うまっ!」と声をあげる。
「だろ?」余裕がドヤ顔を向ける。
「そりゃうまいですよ、たまごサンドなんですから」悔しそうに啓介が言う。
「不味いたまごサンドもあるぞ」
「それ、キツイですね」
ゆっくり、けれど確実に時間は進む。
変わるもの。
変わらないもの。
そえぞれに良いところも悪いところもある。
進むなら良いように進みたい。
「なあ啓介」
「なんです?」
何度目かの夏から何度目かの秋へ。
活気に満ち、興奮した季節は、しとやかに、鷹揚な季節へと繰り返し変化する。
「大切にしろよ、その子」
「言われなくてもそうしますよ」
二人の笑い声が小さな公園いっぱいに響く。
惰性は怖い。
誰よりも速く走りたいと山を攻め始めた時、レースをするようになった時、きのう島と限界走行をした時。
アクセルを踏むでも抜くでもない状態。
いわゆるパーシャルな状態は車の挙動が安定しない。少しの誤操作が致命的なミスに成る。
走っている時には当たり前に頭にあって、大切なことだと気を付けていた。
それなのに、普段の自分という人生において余裕は、当たり前にどうでもいいことだと排除していた。
「バカだよ俺は」
「え? なにか言いました?」
その声に反応して、余裕は半分食べたたまごサンドを啓介に見せる。
「やっぱりうまいよな、これ」
ニッと前歯に卵のついた笑顔を向ける。
「いや、だから、それは僕に向けるものじゃないって言ったじゃないですか。というか、それ以前に不快です」
余裕が急いで口周りを浅葱色のツナギの袖で拭う。
当たり前にそこには、濃い赤色と薄い黄色がべったりと付いた。
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