第39話 実力。

イデムの二階。

そこは、羽生の居住スペースであり、アトリエだった。


「使いたい放題ですね」

「いや、別にそういうことではないんだけど……」

「じゃあどういう訳ですか?」

「……お好きに」

「やった!」

「でも、しずかちゃん。その手」

「はい。だから描くのは無理なので、勉強ってやつを」


静は今日までほとんど、ではなく、すべて、自己完結だった。

それはまるで、地上100メートルの綱渡りを、全力疾走で走り抜けようとしているようなもの。

才能とかセンス。

そんな感じだ。


「そうか、そうねー。なら、まずは知識からかな」

「ちしき……知識……チシキ。わかりました」

「ほんとに分かってる?」

「ええっと……、はい!」

静の受け答えに、羽生が目頭を押さえる。

「その仕草」

「ん?」

「私の友達もよくします」

「その子に同情するわ」

「同情? それってマイナスってことですか?」

「え?」

「だって、それって白色ですよね?」

静のその問いに、「さっそく来たか……」と羽生は帯を締め直す。


「どうして? どうして白色だと思うの?」

「だって、白は白ですから」

「……。しずかちゃん、今から見せる絵を何色か教えてくれる?」

「はい」

羽生は本棚から一冊の画集を引き抜くと、パラパラとページをめくり、目的の絵が載っているページで止める。

「そうだ、色と一緒に題名も答えて」

「……わかりました」

「うん。じゃあ、はい! これ!」

めくれないようにしっかりとその絵のページを押さえ、静の方へと向ける。


色。

それは、人間が目を使って認識する。

僅かな違いがあっても、それは誤差でしかない。


画家はそれを再現する。

するとどうだろう。

瞬時に、誤差という常識が崩壊する。


表現ということへの手段なのか?

単にその人間がそう見えているだけなのか?

まさに十人十色といった具合に、『色』というものがその概念を超える。


羽生と静には、その『色』というものでの共通点があった。


それは、自分の表現したい色、自分の目で見た色を自由自在に表現できるというものだ。

例えば、頭、もしくは目で、青だと思う。

すると、青という漠然としたものの中から、青をキャンバスに躊躇も、迷いもなく、即座におとせる。


普通は、「この色ではない」と、当人が見て思った色の再現に苦しむ。

けれどこの二人の場合、

「本当にこの色でいいのか?」

といった具合に悩む。

同じようなことのようで、絵というものへのアプローチとしては決定的に違う。


正解が分かっている。

この絵にはこの色だと。

瞬時に色を生成できる。

だから、悩み、迷う。

「この青だ!」は起こることなく、「ここは青?」となる。


機械的で無機質。

なようで、本質的にまっとうで、まっすぐで、実に人間くさく悩める。

『色』に対して真摯に向き合える。


『青』、『赤」、『緑』、『黄』、『茶』、『黒』、『白』。

無限に広がる『色』。

その色一つ一つを認識し、表現できるから悩む。


「誰の絵ですか?」

「……そこからかぁ」

今一度、羽生が目頭を押さえる。


「ええっと……。色からでいいですか?」

「ああ……うん」

「青です」

「じゃあ、題名は?」

「死」

羽生は、自分で選んだとはいえ、静の口から出た題名を聞いて、とてつもない違和感に襲われた。


「正解は?」

無邪気に静が聞く。


「その前に、この絵が誰が描いたのか知りたくない?」

「うーん」

「え? だってさっき誰が描いたか聞いたじゃない」

「私知ってます?」

「もちろん!」

「うーん、じゃあ、一応聞きます」

その態度は、ついさっき勉強したいと言っていた人間のものでは到底なかった。


「ハァー。フルネームは長くて面倒だから」

「もしかして」

静は羽生の言葉を遮って答えようとする。

「知ってるの?」

「……ピカソってのですか?」

「なんだ、知ってるじゃないか!」

「はい、いちおう……で、だれが描いたんですか?」

「え?」

「その絵を描いた人です」

「……え?」

「だから、そのピカソ色の絵を描いたのは誰なんですか?」


その瞬間羽生は理解する。

「死」という題名を静が口にした時の違和感の正体を。

意味がない、ただの言葉、死が違っていると。

違った。

羽生は、自分が思っていた考え方の間違いに気づく。

目の前の、この自分の半分くらいしか生きていない人間は、すでに完結している。本質というものをすでに身につけている。

だったら。


「ごめん、しずかちゃん。この絵の作者のことは忘れて」

羽生が本を閉じる。

「……はい」

静が、なにを見るわけなく、羽生から視線をそらす。


埃の霧が、太陽の光を受けてちかちかと光る。

色を与えられて。


「『死』っていう題名は? どうして?」

羽生の表情が歪みながら静の視線の先を追う。


「かなしい青だから……ピカソは。だし、あんなにはっきりその色を使ってるから。もうクドいって感じで」

さらに羽生の顔がゆがむ。

「どうしてあの絵を羽生さんは私に見せてくれたのか知りませんけど、私は使いません。絶対。嫌いな色なんで――だから『死』」

歪んだ顔から真顔へ、そして驚き、微笑みで止まった。


「なら……それなら、しずかちゃんが『死』っていう絵を描くなら、どんな色を使う?」


思い出してほしい。

ここでのこの二人の『色』とは、すでに頭に浮かび、その色を今すぐにでも表現できてしまうということを――。


「そうですねぇ、まず青は違うから使いません。あと、黒、白も。」

「……」

羽生は黙って静の答えを待つ。


「なので、ん? ちょっとまって下さい……。あれ? もしかして」

その静の戸惑い具合に羽生が興奮していく。

「やっぱ、ピカソ色です。うん、あれ正解です。さすが、誰かしらないけど、画集を出せるくらいの売れっ子ですね。嫌いな色ですけど」

「く、っくく、ふ、あははは! うんうん、しずかちゃんらしい、素直な良い答えだね!」

「そうですか?」


羽生は決心する。


静に見せた絵は、ピカソだった。

俗に言う、ブルーピカソ。

その最初の作品といわれている、死せるカサジェマス。

青の時代とされたピカソの人生の一部。その中での絵。色。


静はその色が嫌いだと言った。


羽生はピカソが好きだった……。それに四季も。

絵、それにピカソ本人を。


「四季とあのギャラリーでしずかちゃんが会った日にね、僕に電話してきたんだよ、彼女。何年ぶりなのか忘れるくらい連絡とってなかったからめちゃくちゃ驚いて、出るかどうか迷っちゃって。でもやっぱり出たんだけど……」

優しく、温かい、静が知っている羽生がそこにいた。


「第一声が『ムカつく』、だって。それも怒鳴り声の。焦ったよぉ、でもすごく懐かしかった。その怒りの矛先が自分じゃないってすぐに分かったし」

「私、ですか」

「そう。四季の怒りの矛先はしずかちゃんだった。正確には、しずかちゃんの描いたあの絵、『浅葱月』が原因だった。僕も実際に視てすぐにどうして四季があんなに怒ってたのか、そして、焦って興奮してたのか理解できた」

優しく、温かい表情にさらに、悲しみを含んだ。


「それは、あの絵が正解だと思う『青』という色をもうひとつ出現させてしまったからだよ」

「……青はどんな色なんですか? その……、二人にとって」

「悲哀、苦悩、不安、絶望」

「ピカソ、ですか」

「そう」

「だったら確かに違いますね。真逆です」

「なら、しずかちゃんの青は?」

僅かに、羽生の顔がまた歪む。


「怒り、興奮、正直、希望、それと……余裕。です」

「余裕?」

「はい。最近気づいたんです」

「余裕――なんだか、しずかちゃんっぽくないね」

「うん、そうなんです!」

自分で声に出して。羽生の口からそのを聞いて、確信する。

羽生は、「託そう」すべてを。

静は、「本物」を見つける。と。


青の時代。

静の時代。

それは、戦い、勝利し、たまに負けて、傷つき、癒やされ、迷い、間違えて、見つける。

時間と命を賭して描く。


「あの青、名前あるんです」

「そうなの?」

「うん! 『余裕色』です!」

「――いい色だね、余裕色」


二人は驚いたような笑顔で見合う。

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