第38話 再会。

ドアノブを触る。

もう熱い。

錯覚だ。

今はもう秋。

それに朝だ。

南向きに建てられたこのヘンテコアパートのドアに日光は当たらない。


「どうして」

余裕は恐怖で、躊躇する。

開ける。

そう自分に言い聞かす。

ガチャっとする。


「おはよう」


その声に半回転させたノブを止める。


「あれ?」


もう開けるしかない。


「啓介くん?」


ガチャリとする。


シリンダーが回りきり、ほとんど勝手にドアが開いていく。


ああ、だからか。


夏の陽射しを全身で受ける。

でもなんでか眩しくはない。


「あれ? 啓介くんじゃない」


画家、二階の住人、かなり可愛い。

そんな単語の情報が頭を巡る。


「あの」


困ってる。対応しなければ。


「お久しぶりです」


?。


「ヒサシブリ」

その言葉がどんな時に使うもので、そのものの意味さえも見失う。

余裕は、だた言ってみただけになった。


「今日はあの色のツナギじゃないんですね」

「ツナ……ギ?」

「はい。よゆう色の」

静はあえてそう言う。

余裕は、普通より少し大きめな瞳を見つめる。


月は朝の白に消されまいと自ら発光しようとする。

青く。

でも、それじゃこの空に紛れてしまう。

ならば、と、残り少なくなった緑を木々たちから貰い受ける。

「ありがとう。これで大丈夫」

そう言って月は、普段よりも、束の間の時間だけありえなく発光する。


「あの月みたいな色の」

「どれ?」

突然目線を空に移されて、余裕が玄関から空を見ようと上半身をできうる限り伸ばす。


余裕と静の顔が皮膚一枚分の隙間を残して近づく。


「あれ」

「うーん、どれ? ……あ! ほんとだ、っと」

無理な体勢に限界を迎えて、余裕が姿勢を戻す。


その動きよりもほんの少し。本当に少しだけ早く、静が正面を向き直した。


優しく、鳶色の奥、深い深いところに青い瞳。

日に焼けた褐色の、荒れた肌。

それまで、なにをしていたのかと考えさせられる、白くかわばった唇。

それらが、自分よりも高い位置にある。


「どうしました? 余裕さん?」

啓介が聞く。


よゆう。

このひとの名前。


静はとっさに顔を背ける。

余裕に気づかれないことを願って、そして、気づいてほしいとも。


「あ、静さん。おはようございます」

啓介が言う。


静。

このひとの名前。


体勢が整うよりも先に余裕は、頭を無理矢理据える。


なんだか汚い両手。

荒れてるな。

オレンジのトレーナー。

ダサい。

丈夫そうな顎に、湿った唇。

よく食べそう。

福耳。

かわいい。


「やっぱり大きい」

今までみた女の子の中で一番だ。

「なにがですか?」

そっぽを向いたまま、ギロっと眼球だけが余裕を強く見る。

「ちがうちがう、違うって!」

「なにがですか?」

今度は頭全部を向ける。

「目……が」

そう言いながら、ゆっくり無意識に体勢を整える。

最初の形に戻って二人は向き合う。


「ふたりとも、どうしたんですか?」

「「んえ!?」」

「お知り合いですか?」

啓介が、トンデモ爆弾を爆ざす。


「ええっと……」

「うん! そうなの。前に病院で」


病院。

朝日がなにかに反射して余裕の目に飛び込んできた。

でも眩しくない。

やっぱり。

静。

君だったんだ。


「太陽」

しっかりと声に出す。

「月じゃなくて?」

静も。

余裕は空を見る。静はさらに高く。


「どっちなんですか?」

「ん? ああ、うん。知って……た、よ」

横目に静の表情を盗み見る。

ピタリと視線が合う。

即座にそらす。


眩しい。


ずっと見ていたい。


「静さん。こんな朝早くになにか?」

「……」

「静さん?」

「……ん? ああ、これ、この前言ってた私の絵が置いてあるギャラリーの場所」

静は地図の書かれたメモを啓介に渡そうとする。

「あ、わりい。じゃまだよな」

余裕が完全に退くことをせず、半身になる。

「はい」

静が余裕の体で半分以上塞がれた入り口に無理やり体をねじ込む。


髪が鼻をかすめる。


日向の匂いがする。


「わざわざすみません。ぜひ行かせていただきます!」

「うん! いつでもいいから! 私鍵持ってるから、言ってくれれば時間関係なく入れるから! じゃ!」

ねじ込んだ体を、さっと引き抜く。

また、鼻をかすめる。


「その髪」

「え?」

「あ、えっと、その髪型いいね。似合ってる」

その余裕の言葉を聞いた静の顔中が真っ赤に染まる。


「す、すみませんでした!」

なぜか謝って静は走って去っていく。


余裕にはそのうしろ姿があの時と少し違って見えた。

元気だけれど、焦ってて。それに、嬉しそう。


ガンガンガンと階段を登る音。

もちろん上がる心拍数。

ガシャリ!

勢い余って、ここに越してきてから今までで一番、雑にドアを開ける。

「な、ななななんなんで? はあ!?」

大音量の独り言の癖が災いするし、幸いもする。

ガタぁン!

ドアが閉まる。


「なんか、すごく混乱してますね」

「な」

「原因は余裕さんみたいですけどね」

「はあ!?」

「はあ? じゃないですよ。まったく……」

啓介が首を傾げる。


「そうだ! 余裕さん、今日仕事は?」

「暇」

「なら一緒に行きません?」

「ギャラリー……か?」

「ええ、乗せってって下さいよ」

「いいけど、先に車みてもらうぞ」

「やった! じゃ、決定で!!」

啓介が急いで靴を履く。

「おい! その前に、朝めしだからな!」


荒木 静。

余裕は、彼女が描く絵を見てみたかった。

それが、彼女を知るに一番良い知り方だと思ったからだ。


太陽のようなオレンジ。

「にしても、ダサいトレーナー着てたな」

「会ってみた感想の一つ目がそれですか? しずかさんに失礼ですよ?」


虹色の手。

「手見たか? きったなかったな」

「まあ……たしかに」

「それに、怪我してたな」

「え? そうですか?」

「右手首。利き腕だったら絵描けてるのかな?」



静は鏡の前で何度も自分で切った髪を手で梳くように撫でる。

「あんなきれいな声聞いたことない」


静かで、よゆうのある間。

「余裕……色、だったなぁ、やっぱり」

髪を撫でていた指を唇に移す。

「どうしてあんなになるまで乾いてたんだろう?」

さらに怪我している右手首に移す。

「あ! 今日検診の日だった!」


キュシュシュシュ、シャヒン、ブボボボ。

外から聞いたことのない音がする。


明らかな近所迷惑なその音が、静には何色にも例えようのない色で届く。


少しして、その音が遠のいていく。


静は、珍しく身だしなみを整え、病院に行くだけなのに、服選びをする。

靴紐を結び直し、玄関のドアをゆっくり、ひっそり開ける。


少し歩いて赤信号でとまる。


すると、さっきの音が近づいてくる。

「なんで?」


静の目の前を、その色が横切る。


赤信号はいつの間にか青色に変わっていた。

「ふふふ、似てる。あれ?」

今までジンジンしていた右手首の痛みを感じない。


静は、両腕を必要以上に大きく前後に振って横断歩道を渡っていった。

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