第36話 余波。

「よくこれだけで済みましたね」

「だよな、以前のこいつだったら、足いってたはずだからな」

異音はおさまっていない。

余裕の握るステアリングにも不規則な振動が伝わってくる。


「よく正志さんに叱られたよ。こうやって異常が出て、ピットに帰ってきた俺が、あんまりにもニヤけ顔で帰ってくることが多くて」

「どうしてニヤけてたんですか?」

「簡単に言っちゃえば、すごく調子が良いんだよ、そういうときって。車も俺も。あるだろ、そういうこと。少し疲れてたり、余裕がないときとかのほうが体が思い通りに動いて、集中力も高くなって」

「わかります。気合十分って感じより、少しラフなほうがいい考えが浮かんだりして」


余裕は車のことに対して。

啓介は絵のことに対して。

だからこそ同じで、共感も出来ている。


「そうだ」

「ん? なんだ?」

「いえ、僕が最近また絵を描き始めた理由なんですけど」

「うん」

「二階に住んでる人の影響なんです」

「へえ。島さんに聞いたけど、かなり変わったアパートなんだろう?」

「ふふ、変わってます。確かに。それに、その人はもっと変わってて」

「まあそんなアパートに住むくらいだからな」

「一応僕も住んでるんですけど」

「ん? だって、お前は変わったやつだからなんの違和感もないだろう」

「ひでえ言われようですね。彼女が聞いたら怒られますよ?」

「彼女? 女なのか?」

「ええ。それも、かなり可愛いです」

「俺、啓介のタイプ知らないし。それに、お前の女の子に対しての慧眼度合いも知らないし」

「もしかして、僕って嫌われてます?」

「親子でな」


相変わらずの振動と異音。

機械なのだから、勝手に自ら治るなんてことはありえない。

人と車。

それは、どんなに近づくことが出来ても、重なること絶対にない。

そのことを改めて知らさえる。

けれど。

それでも。

余裕は、幾度となく喋りかけ、のことを労り、思いやった。

当人からしたらそれは、会話であり。れっきとした、コミュニケーションだった。


だからなのかもしれない。

この振動や異音が、心地よいとさえ思え、あのときの余裕の顔をニヤけさせ、今はこの二人の会話を弾ませている。

それは、FDが一緒になって楽しみ、ふざけあっているからなんだろう。


運転席、助手席とも窓全開で、車内には絶え間なく、溶けたタイヤ、揮発したクーラント、廃棄ガス。それらが金木犀の匂いをベースに、秋の風になって、ぐんわりと押し入ってくる。


「そこの街路樹を右折です」

啓介の指示に従って余裕はステアリングを右に切る。

「あの建物です」

少し大げさに、啓介が腕を真っ直ぐ突き出し、指差す。


西の空には、朝焼けの三日月がはっきりとした満月の輪郭で浮いていた。


余裕は心臓の異様な鼓動に気づく。

それは、ステアリングから伝わってきていた振動を相殺し、異音と共鳴していく。

次第に、苦しくなる。

胸が苦しい。

そんな言葉、啓介には言えない。言ってはいけない。言えるはずもない。

なぜなら余裕には、この苦しみに覚えがあり、何度か経験したことがあるからだ。


「どうしました?」

心配そうに啓介が余裕の顔を覗きこむ。

「ああ。なんでもないよ。車、どこに止めたらいい?」

「裏に駐輪場というか、空きスペースがあるんでそこに」

どう見ても、六部屋は入るだろうアパート横を通り、裏側へとまわる。


「二人しか住めないんだろう、ここ? いるか? このスペース」

そこは、駐輪場とは名ばかりの、もう一棟建てられるほどの庭だった。


「なんだよ、ここは。こんなじゃ家賃高いだろう?」

「三万四千円です」

「はあ!? 13万じゃなくてか?」

「はい。さんまん、4000円です」

「はあー」

ため息と、驚嘆の混じった息を余裕は吐いてしまう。


なんとなく、収まりがいいだろうというところに車を止める。

「よってきますか?」

「よるよ! 当たり前だろう。中どうなってんのか見たくてしょうがないからな!」

「ふふ、そうですか。じゃ、そうして下さい」


二人はFDから降り、玄関のある正面にまわり直す。

「納得いかん」

複数の意味のこもった言葉を余裕が吐く。

そんな余裕を尻目に、当たり前に、自然に、当然というふうに、啓介が鍵を開け、ドアを開け、「どうぞ」と言う。


「普通だ……、けど、普通じゃない」

「なんですかそれ」

啓介は、使い込んだ電子ケトルに水を入れスイッチを押す。

「コーヒーでいいですよね?」

「おう、サンキュー」

余裕は、今どきの若者のがどんな生活をしているのかと、部屋を見回す。

「お!」

余裕は、ひと目でそれがなにに使うものか分かってしまう集合体を見つける。

「いいでしょ! 最近買ったんです」

そう言いながら、啓介が両手に持ったコーヒーカップのひとつを余裕に渡す。

「ありがとう……ん? うまいな、これ」

「でしょう!」

得意げに、少しだけ偉そうに、啓介が言う。


「そうだ啓介! お前、また描き始めたきっかけが、上に住んでる可愛い子だって言ったな」

「はい」

そのとき、上の部屋から物音がした。

その音に余裕は、必要以上にドキリとする。

そのドキリは、久しぶりで、心地が良い反面、受け止めるにかなりの胆力を消耗するものだった。


苦しい。

心臓じゃなくて、胸が。


「本当に大丈夫ですか?」と二度目の確認をされる。


一瞬間を置いて、


「名前とかって知ってたりするのか?」

まるで中学生が、自分の気持を悟られるのを怖がるような口ぶりで余裕が言う。


「え? ええ、えっと、たしかぁ……、そうそう、アラキ。余裕さんと同じ苗字です」

「ふぅん……で? 名前は?」

自分が急いていないか確認しながら、聞く。

「……なんか、アレですね」

「なんだよ?」

「分かり易いですよね、余裕さんて」

急いで余裕は、自分の顔をはたくように触る。

「ふふ。しずかさん、です」


その名前。

啓介の口から出たその名前。


荒木 静。

余裕は、そう脳内変換する。

どうして自分の『新木』、ではなくて、『荒木』なのか……。

それと、静という、それしかないだろうという変換。


荒木 静。


「荒木静」

思わず声にする。


インターホンが鳴った。


余裕はドアの向こうに立って、今か今かと、開けられるのを待ち遠くしている荒木静の姿を想像する。


「俺出るよ」


二人は二回目の出会いをする。

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