第35話 本音。

「んで、どんな感じだったの?」

「うーん、いまいち……かな」

「なによそれ、かなりの量見たんでしょ?」

「うん。でも、いまいち」


静は、週一の検診で、枢の務める病院に来ていた。


「いまいちはあんただから分からんでもないけど、さすがにそれだけ回れば一枚くらいあったんじゃない?」

枢が慣れた手つきで静の右手の処置を行いながら言う。


「うーん……、しいてあげるなら駅前のデパートでやってた一般公募のやつかなぁ」

「なによそれ、昨日はなんとかっていう有名な人の個展見てきたんでしょ?」

「あー、あれ。クソつまらんかった。時間の無駄だった」

「ふーん、そんなもんかねぇ」

「そんなもんだねぇ」

「……はい、完了!」

「はい! ありがとうございましたっと」

検診が終わったと同時に、右手首のことを忘れたように勢いよく静は立ち上がる。


「今日は? これからどっか行くの?」

「うん、車屋さん」

「車屋? なんで?」

「さっき言った絵が車の絵だったの。あと、この前その絵とおんなじのやつがうちの近く走ってるの見かけて……、あ、そうだ! 一応聞くけど、枢って車詳しい?」

「一応とはなんだ。免許はあるけど、詳しいってほどじゃない。一応聞くけど、どんな車? 外車? 形は? 大きさは?」

「速い車」

「ん? 速いって、スピード出してたってこと? あの辺そんな道ないよね?」

「うん。歩くような速さだった」

静の言葉に、枢が目頭を強く押さえる。

「一応聞くけど。なんで、速そうとかじゃなくて、と思ったの?」

「燃えてたから」

「はぁ」と、枢はついにため息を漏らす。

「何色に?」

「よゆう……じゃなくて、浅葱色」


静は、この間の鈴鹿四季とのことを枢に話していた。

悔しさ、虚しさ、腹立たしさ。

ありのままの気分を、ほとんど八つ当たりのように話した。

そして、その権化ともいえる、題名のことについても。


「……どんなやつだったのか、簡単にでいいから描ける? それと! よゆう色でしょ?」

枢の言葉に、静は「えへへ」と、どうしてか照れながら一枚の紙を差し出す。

「相変わらず、目的のためならって感じね、静は」

枢は紙を広げ、静の描いてきた車の絵を見ると、「確かに、速そうってよりかは、速いって感じね」と言った。

その言葉に今度は、満面の笑みで静が無言で答えた。


「車好きの人なら何人か知ってるから聞いとくわ。見たところ、国産のスポーツカーっぽいし、すぐに分かると思うわ……なのでぇ」

枢が怪しげな作り笑顔をする。

「その変わりって訳じゃないけど、車屋巡りは我慢してもらって、しばらくの間、S・Sの店番頼める? なんか最近ごたついてて、仕事溜まっちゃって」

静は、あまり聞いたことのない枢の頼み事と、ほとんど見た覚えのない手のひらを綺麗に合わせた懇願ポーズに、「ガッテン!」と、素早く敬礼をした。

その快諾の素直さに、一瞬枢は一抹の不安を感じたが、「助かる、ありがと。それじゃ、今からお願いね!」と静を送り出した――。


静は、S・Sに着くと、なんだか少し様変わりしたように見えた。


「ん? 絵少なくなってる……もしかして、売れた?」

勢いよく携帯を取り出し、今頃、その溜まった仕事とやらに躍起になっているであろう枢に、躊躇などするはずもなく電話する。


「……殺すぞ」

恐ろしく冷静で、ドスの効いた声の枢。


「絵が減ってるんだけど、どうしたの?」

声を弾ませ、まるで背中に羽でも生えたのかのような声色で、静が聞く。


「売れた。切るよ」

「まって! 売れたって、この前来たときからそんなに経ってないよ?」

「あたしにも分からんけど、別に、同じ人がまとめてってわけじゃないし、多分、全部違う人だったと思うけど」

「なんで言ってくれなかったの?」

「どう? 驚いたでしょ。値段はそのまま売ったからご心配なく。だから、結構な金額になったわよ!」

「……」

「どうした? 嬉しくないの?」

「うれしい、けど……なんか、どうも、変」

「もしかして、鈴鹿四季?」

「……うん」

「そうよね……。あたしも、そうじゃないかって思って」


ガチャ。

部屋の戸が開かれた音がする。

「!」

その、最近聞いて、見た光景に、静が珍しく怯む。


「やってますか?」

その声は男の声だった。

しかし。

さらにその声に、怯み、逃げ出したくなる。


「……ひさしぶりだね。しずかちゃん」

とっさに枢との通話を切る。


「……」

静は声が出せない。


無意識に、目の前の人物に透明で、どの色にも瞬時に擬態出来てしまう膜をかける。


「ごめん」

部屋の景色から声がする。

その声は静に向かって誤ってきた。


膜と、部屋の景色にズレが生じる。


「君がいてくれてよかった」

聞き覚えのある声がする。


「悩んでるって聞いて」

「誰にですか?」

「え?」

「なにを、ですか?」

「えっと……」

「どうして、ですか?」

「……しずか、ちゃん?」

すでに静の目には、今にでも溢れ落ちそうなほどの水分が溜まっていた。

そのことを、勝手に話を進めるという手段でごまかすしかなかった。


「まず、誰からだけど……四季から聞いた」

「……」

はっきりと、人の輪郭が見え始める。


「次に、題名のことについて」

「……」

今日着ている服が分かる。店の制服ではない、私服だ。


「諦めた僕程度でも君の力になれると思って……」

「……」

困った表情。

私の知ってる、一番、らしい、羽生さんの、好きな顔。


「それと、伝言をひとつ」

「伝言?」

「うん、四季から」

「四季……鈴鹿四季」

「そう。彼女から。『敵に塩送る』だって」

「知ってるんですか? あの人のこと」

「彼女は、美大の同学年で、元妻」

静は、一瞬自分がなにを言われたのか理解できない。


「それにしても、彼女から宣戦布告を受けるなんてね」

「ちょ、ちょっと、待って下さい! いまなんて?」

「宣戦布告? ……え? されたんでしょ? 宣戦布告」

「そこじゃあなくて!」

「ええ? どのこと?」

「もういいです」

「いいの? ほんとに?」

「よくないです!」

鈴鹿四季と羽生さんが元とはいえ、夫婦だったとは……。


静は、すっかり今の状況を飲み込んでしまっていることに気づかずにいた。


「でも、四季のあんな声、久しぶりに聞いたなぁ」

その顔は、羽生自身が、まるで褒められたような、恍惚とした表情をしている。


「あのひと……四季さんは、他になにか言ってなかったですか? あっ」

静はなぜそんなことを言ってしまったのか驚く。


「『浅葱月』を視て。って言われた。それと、多分その絵の近くに雲っていう題名の絵があるから、そうしたらその絵は燃やすか、僕が引き取ってくれって」

羽生の口から『浅葱月』という自分の絵のが出ただけで、静の心臓はこれ以上ないほどに、不規則に、抑えつけることが不可能に激しく震える。


「その絵って、しずかちゃんが描いたんだよね。みせてもらってもいいかな?」

面と向かっていた静が、くるりと向きを変えて、「こちらです」と羽生に背を向けながら接客するような文句を言う。

さっきは羽生の口から直接聞いた『浅葱月』。

それは、静の絵の題名を四季が伝えたということだ。


もうこれ以上激しく動くことはないと思っていた心臓が限界突破する。


いままで静は、自分の描いた絵を他人にみせるということに、大した考えをもっていなかった。

「できた!」という掛け声を出せば、それは、イコール、視てもらえる。「どうだ!」ということになる。

願望や、欲求が、そのほとんどを占めていた。

だが今の静は、「みせたい」と「みせたくない」が半々になってしまって、半ば迷ってしまっていた。


「これです。あと、横のが四季さんの絵です」

余計にそう言って、静が自分の絵の横に立つ。


「……だからか、そうしたくなったのは」

羽生が不意に漏れてしまったように呟く。

「しずかちゃん。これは僕の憶測なんだけれど。四季のやつ、悔しかったんだと思う」

そんなことを言われて、静が「え?」と、思わず羽生と目を合わせてしまう。

「率直に、君のこの絵と、四季のこの絵。どちらが良いと思う?」

まっすぐに羽生が見つめ返す。

静は、ここで目線を外したら駄目だと、睨むようにして答える。

「私の絵のほうがいいに決まってます!」

「僕もそう思う。それに四季も」


静は、「ああ、だからか。そうだったのか」と思った。

どうして羽生のことが好きなのか。

どうして四季のことが嫌いなのか。

あのときの羽生に忸怩してしまった。

この前四季に敵意を向けた。

その理由が、はっきりと分かってしまった。

自分のことしか考えられていないと蔑まれた

題名がなければそれは勝負していないと貶された。

この二人に。

この元夫婦に。

ここのところ、自分以外を見るようにしていた。

最近、自分の描いた絵たちに題名を付けていた。

たくさんの絵を視て、あの親子と会って。

ギャラリーの絵が売れて、枢も喜んで。


私にとってこの二人は、


『憧れ』だった。


その答えは、さらに、もう一つの答えを生んだ。


静は、四季に言われたあの言葉を思い出す。


『ところで……しずかさん。あなた、恋しているわね?』


好きな人は別にいた。

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