第34話 決着。

これから数秒間。

余裕と島。

二人の時間は、より凝縮し、濃密になっていく。


島とAP2は、この微妙に曲率が変化する左コーナー脱出部分を捨てていた。


『捨てる』という行為。

その重大さを島は十全に理解していた。

それどころか、捨てるなんて行為自体が島が最も嫌うものだった。

そこから捨てる。

ここでの『捨てる』とは、そういった類のものだった。


には行かない」

余裕がFDの窓を開ける。

「涼しい」

この時期とは思えない、ひどく冷えた空気が蒸れた車内を一変させる。


白色の世界の住人。

その世界には様々な人間が出入りする。

だからといって、誰しもがその世界に立ち入れるという訳ではない。


「そっち側のままじゃ、負けですよ」


異常で、異質な集中力。

それが、世界の常識であり、鍵。


「俺は、灰色で十分だ」

二人の会話は続く――。


「死にますよ…」

「いいや」

「余裕さん!」

「…」

「ほんとに死ぬぞ!!」

「死なないよ」


サイドバイサイド。

非現実がすべてになる。

当たり前が、常識が。覆り、ひっくり返る。


ドン。

島に、その世界から出てこいと、入り口の戸をノックする音。

非情な世界。

音が消え、時間が止まる。

モノクロームな世界。


30センチメートル低い、灰色の景色を、余裕の目が捉える。


高い夜の空には月が同じ色に輝く。


ゆるやかに、そして、なめらかに。

もやりと、青い炎を纏った鉄の塊が、浮いている。

そう、まさに浮いているのだ。

重力がどうのこうのとかではなく、それが当たり前だと浮いている。

車という存在という観点からいえば、最初から備わっている機能.。

誰しもが、なんの気なしに、使いたい時にすぐに使えるボタン一つで行える機能のように、浮いている。


「捨ててはいけなかった。

自分は間違ってなかった。」

島が嫌でも納得させられた。

「ジェニー……ルーム」


天才の余裕。


「そっちだったのか」


白色の世界には多くの人間が居る。

出入りしている。

懇願し、時には強制的に、その世界と関わる。

鍵。

常識。

集中力。

それらは人間に必要なものであり、善しとされるもの。


余裕はそっちを捨てた。

いいや。

白色の世界とかいうなんだかわからないもの、信用なんて絶対に出来ないものから必死に逃げた。

いざなわれることに恐怖し、頑なに拒んだ。その度に強固な思考を強めた。

臆病な鎧を纏ったのだ。


「あんなや、。クソくらえだ」


ガッシャーン。


何かが粉々に割れるような音。

灰色の景色が終わった。


「なんか音するな……ガシャガシャって。まあ、しょうがないか……。ごめんな相棒。俺、運転下手くそでさ」


その音が、窓を閉めたままのAP2、島の運転席にも届く。


「真っ黒……ん? ああ、そっか」

暗闇に浮かぶ、目の前の青い炎が、島に勝敗を知らせる。


「やっぱりか……」

「いやいや、俺も焦ったよ」

「またまた」

「やっぱり? バレたか」


ゴールまで残り200メートル。

ストレート。

4速。

アクセル全開で2台が下っていく。


ガードレールは消え、木々たちの隙間から街明かりの生命力たちが活火と光って見える。


「久しぶりに見たな」

「綺麗ですよね。でも、ここからしか見えないんですよね」

「だから良いんじゃないか」

「ですよね」


2台が最高速に達する。

純正のスピードメーターでは表示することの不可能な速度。


「啓介が

「それをいうならでしょ」


急勾配はゆるやかに。

二人の気持ちも同様に。


「今日はありがとうございました」

「こちらこそ。ありがとう」

「あーあ、最後まで抜けなかったな」

「逃げるが勝ちだ!」


ピッ。


2台が目の前を通り過ぎる瞬間に全神経を集中させて、啓介がストップウォッチを切った――。



「いっちゃってます? 足」

「それが、どうやら一歩手前だったみたいなんだよ」

「そうでしたか。考えてみたら最後のストレートであれだけ伸びたんですから、そういわれてみたら、そうですね」

「なにを、『そうそう』言ってるんですか?」

ゴールラインの啓介を通り越し、だいたい、50メートルくらい先。

余裕と島は、FDとAP2から降り、談笑していたところに、額にうっすらと汗をかいて啓介が駆け寄ってきた。


「啓介くん、帰りは余裕さんに送ってもらって」

「はい……でも」

啓介がFDのタイヤをちらりと見る。

「おお、さすが。気がついてたか」

「右側前後のサスペンションですか?」

島と余裕が顔を見合わせる。

「どうです、これ」

「もったいないよなー」

「ですよねー。これだけ向いてるのに、だなんて。もったいないよ、啓介くんは」

「またそのはなしですか……いいんです。僕は僕が好きなことをやってるんですから」

「絵? 啓介、おまえ、まだ描いてたのか?」

「まだっていうか……最近また描き始めたんです」

そういう啓介の表情はなにかに迷っているようだった。


「言わねえよ」

余裕が言うと、俯きかけていた啓介の顔が勢いよく前を向き直す。

「いまさら正志さんが、お前が絵を描いてること知ってもなにも言わねえよ。そもそも、啓介が絵を描くことを、正志さんは反対してないしな」

「でも親父、僕が絵を描いてるの見るといつも顔を歪めるんですよ?」

「それは……なんだ……あのー、あれだ」

「なんですか? ちゃんとして下さい」

「だから、アレだ。まあ、そのうち分かるようになるって」

そう言うと余裕は、島に、「また、やろう!」といってFDの運転席に啓介から逃げるように乗り込んだ。


「なにしてるの。早くしないと逃げちゃうよ、余裕さんは」

島が笑顔で啓介に言いながら右肩を押した。


押された右肩の手には、『1分59秒999』で止められたストップウォッチが握られていた。

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