第33話 休憩。

「これで10ヶ所目」

未だ痛む右手首。

静は、描けなくなってしまったその時間を、『他人の描いた絵を見る』ということに注ぎ込むことにした。


「いいのあるかなぁ」

妥当な美術館、S・Sのような個人の営むギャラリー、近くの高校の学園祭、定年後の趣味として始めた人達の作品の並べられた商業施設の極小ブース。

頓着なく、無差別に、貪るように、本当に色々な絵を視た。


「沈黙……ふーん」

今日はそのうちのひとつ、美術館に来ていた。

大手の協賛で、大々的に催されている、いわば王道とも言えるもの。世界で活躍しているアーティストによる個展だ。


「よくわからん」

そこに飾られている絵画は、いわゆる抽象画と呼ばれているもので、観たままそのまましか描いて生きてこなかった静には、ほとんど理解不能な落書き程度にしか見えていなかった。


「これより、先生御本人によるサイン会を執り行います。画集を購入された方限定ですので、所望される方は、物販ブースでお買い求めの後、こちらにお並び下さい!」

本来なら、この広大な面積を見て回ってきた客たちが、一休みするための、ソファや、椅子、軽く飲食の取れるテーブルらが設置されているはずの場所から、若い女の声が聞こえた。


「サイン会? ってことは、この絵を描いたひとがいるってことだよね」

決められた順路に従って絵を見てきた静は、最後まで見終えることをせず、駆け足で出口とかかれたプラカード目指し、暗幕で演出されていた空間から抜け出す。


「うわっ!? 眩しっ!」

時刻は昼時。

二階まで吹き抜けの、だだっ広いスペースには、これでもかと、どこぞのマンションと違って、沢山の日光が差し込んでいた。

「うーん」と、白やんだ視界を拭うように静は、大きな目をさらに大きく開く。

「どこ?」

その表情を近くで見た親子連れが、「ひいっ」と思わず声を上げる。

「あの、サイン会ってどこでやってますか?」

今にも泣き出しそうな子供をあやしている、悲鳴を出した母親に静が聞く。

「え?」

「サイン会! どこで、やってますか!?」

語尾を強めてさらに聞く。

「うわーん、このお姉ちゃんこわいー」

その声に、とうとう女の子が泣き出してしまった。

「あっちです!」

母親がどこかに行ってくれと言わんばかりに、行列の出来ている場所を指差し、静に教えた。

「ありがとうございます」

そう言うと静は、泣き喚く我が子を必死になだめる母親が指さしたところへ向かおうとするが、

「両手出して」と、

突然、泣き止む気配のない女の子に向かって言った。


「うっ、うっ……なん、で?」

女の子が嗚咽混じりに静に聞く。


「いいから」

恐る恐る、女の子が小さな手をゆっくりと静に差し出す。

「ちょっと待ってね……はい、どうぞ」

片掛けのリュックサックから静がガサゴソと取り出し女の子に手渡す。

「……これって」

「絵好き?」

まだ、なにがなんだか理解できないまま、静にそう聞かれて女の子が黙ってはうなずく。


「そっか。ならこれに、これから沢山描いて!」

次第に、女の子から緊張が消え、顔の筋肉が弛緩していく。

「いいの?」

「もちろん!」

静が右手の親指を天井にとどきそうな勢いで突き上げ、女の子の顔の目の前に突き出し、「いたた」としながら、ウィンクする。

それは、眩しく、温かい、美術館中に降り注ぐ日光のような笑顔だった。


「それじゃ!」

静は、リスのようにクッと向きを変え、女の子の母親が教えてくれた場所へ、普段通りに駆けていく。


「お姉ちゃんありがとーー!」

背中越しの呼びかけに、静は、全力疾走しながら後ろを振り返り、大きく手を振り、それに答えた。

そこには、スケッチブックを両手で、これもまた、天井に届きそうなくらい、目一杯頭上に掲げている、おおきな笑顔の女の子と、丁寧なお辞儀をする母親があった。


「ねえ、お母さん」

「ん?」

「これって、あのお姉ちゃんが描いたのかな?」

「そうね」

「……きれい」

「そうね……とってもきれい」

「わたしも、こんな絵描きたい」

「なら、お姉ちゃんが言ってたでしょ?」

「うん! わたし、いっぱい描く! いっぱい練習して、こんな絵描けるようになりたい!」


静が女の子にあげたスケッチブックの一枚目には、美術館に来る途中にスケッチした、太陽の絵が描かれていた。

それは、青色の鉛筆だけで描かれたものだった――。


「ああっ!? あれ、新品じゃなかった。昨日の夜見た、青く燃えてる車思い出して、さっきここに来る途中に使ってた……」


明らかな作り笑顔で、ササッと流れるようにサインを画集に書かいていた有名アーティスト。

そこに並ぶ行列。

全員が、大声の独り言を聞いて、静のほうを向いた。

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