第31話 自分。

半透明な世界。


全開に開けられた窓からは時折、少し前までには考えられない涼しい空気が二種類の風となってビニールを揺らしていた。


『あなた、お名前は?』


「ムカつく。」


『お似合いの名前ね。負けてもいないし、かといって、勝っても決してない』


「上からもの言いやがって。」


『どうして今まで題名付けてこなかったの?』


「うるさい。」


『ところで……しずかさん。あなた、恋しているわね?』


「なんだよ、そりゃ。」


『そんなはずないわよ。だって、この、浅葱月ってラブレターでしょ?』


突然、生温いほうの風が部屋いっぱいに空気を押し込んできた。

その勢いに負けて、部屋の景色が一変する。

立て掛けていた絵はバカバカと倒れ、日焼けしないように裏に向けていた絵は全て、表になった。


夏の風を受けて静の髪が顔中の汗にこれでもかとへばり付く。

七分袖のTシャツにデニム生地のハーフパンツ。

S・Sから帰ってきたままの服装はその影響を受けていない。


「あーもう! 髪じゃま!」

一般的に、静の髪型はセミロングと言われているものだ。

が、見たままで言ってしまえば、いつ切ったのか当人が忘れているほどの、ただの生きている証程度のものだった。


「もう切る」

そういうと静は、風呂場に、工作に使っている普通のハサミだけを持って飛び入った。

利き手が上手く使えない今、左手だけで危なっかしくジャキジャキという音を鳴らす。それは、途切れ途切れに生き生きと浴室に鳴り響いた。


「おし! これで大丈夫」

髪を切り終えて言うようなものではない言葉を静が言った。

「しまった」

服を着たまま髪を切ったことで、静の格好は真っ黒で真っ直ぐの線だらけになってしまっていた。

「ま、いっか!」

服を風呂場に脱ぎ捨て、下着姿のまま、半透明の世界へ戻る。


「うーーーーんっ」

髪も服装もさっぱりした状態の静が大きく伸びをする。

すると今度は、この時期とは思えない、ひどく涼しい風のほうが部屋の空気を一変させた。

「すずしーーー!」


静の目に、生温い風に倒された絵たちが目に入る。


『もっと自分のことを視なさい』

鈴鹿四季がS・Sから出ていく際に言ったことを静は思い出す。


「自分かぁ……」

徐ろに足を動かし、静は浴室にもどる。

今度は、鉛筆とスケッチブックを持って。


「ぷっ、ひどい髪型」

鏡を見つめ、自分で切った髪型に思わずふき出す。

「でも、こうなんだ」

静の左手が動き出す。

「ここは……ふーん」

風呂場の中に、ふたつの風は入れない。

「気持ちいい音」

すり減っていく鉛筆の芯の出す音は、養生シートが張り巡らされた部屋の何倍にもなって耳に届いた。

普段とは程遠い不細工な線を静は描き続ける。


「変なかたち」

静は、自分の顔、自画像を描いていた。

不鮮明な顔の輪郭線。

残念な完成度の髪型。

非対称な大きな目。

幸薄そうな耳。

団子鼻。

そして最後に口。

そこで静の手が止まる。

パクパクとなにかを確認するように静は口元を動かす。

次に「あー」「うー」「おー」と色々な声を出す。

「やっぱりここが一番動いてる」

静が唇を見て言う。

すると、ぐにぐにと、不自由な右手の指で、唇を触り無理やりに変形させる。


「恋」

その唇から声が聞こえた。

静は自分で言ったのかどうかが判断できない。

それを、自分の口から出たものとは思いたくなかったからかもしれない。


「うわっ!?」

思わず仰け反り、鏡から離れる

鉛筆とスケッチブックがタイル張りの床に落ちて、パタっとしずかに鳴った。


両手を自分の頬に当てる。

「あったかい」

髪型がベリーショートになったことで、今まで以上に、表情を確認することができた。

真っ赤に染まった頬は、今まで見たどんな赤よりも、温かい赤色をしていた。


頬が温かいという状態が、どうして起きたのか。

危ういものに気づいてしまったかもしれない。

でも気づいてしまったのなら、この赤が赤色なのか。


静は生まれて初めて自分を見失っていた。


「なんなのこれ!」

『もっと自分のことを視なさい』

「うるさい!」

『もっとじぶんの……』

「わかってるわよっ!」

くい気味で脳内再生をかき消す。

『そんなはずないわよ。だって、この、浅葱月ってラブレターでしょ?』

「あれは絵。なんかじゃない」

『ところで……しずかさん。あなた、恋しているわね?』

「……して……ない。恋……なんて」


静は、鈴鹿四季の声色と自問自答ならぬ、自問『否定』していた。

それがなにかを分かってしまっている自分を誤魔化すように――。


「あつい!」

もはやそれは、発露を目的とした叫びだった。


静は、冷水の蛇口を回す。

生温い驟雨しゅううが静の頭に降り注ぐ。

「ぬるい」

今度は、思いっきり全開まで回す。

滂沱ぼうだとなり、ゆっくり温度を下げていく。


「しまった」

水分を含んだことで縮むTシャツとハーフパンツが、主張するように色の濃さを増す。

無数に張り付いた、まっすぐで真っ黒の線が嫌がりながら押し流されていく。


「はあーあ」

ため息ひとつ。

静がスケッチブックを拾い上げようとした。


「濡れちゃった……あれ?」


そのまま落ちたスケッチブックの自画像の線は滲みボヤけてしまっていた。

不鮮明だった顔の輪郭線は太くまっすぐに。

残念な完成度の髪型はいい感じにまとまり。

大きな目には、備わっていなかった妖艶さが宿り。

福耳となり。

団子は月影を得て細く尖った。

そして、口の部分だけがそのままで。

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