第30話 GО!
臆病だった。
いや、いまでもそうかもしれない。
『鎧』。
そんなふうないい方をしてもいいのなら、余裕にはそれ相応のものが身についていた。
「スタートは俺に分があったな、やっぱり」
その余裕の言葉は、嘘だった。
「俺のなにが『天才』なのか、島さんに分かるかな」
次いで出た余裕らしい、自分を偽った言葉。
一つ目のコーナーが迫る。
車体半分先に、余裕のFDが、島のAP2よりも早く旋回体勢を作った。
普通の運転では聞くことのできないスキール音が、✕2で静寂の峠道に響きわたる。
「さすが、走り込んでるな相手も」
若干の余裕をもって、余裕がステアリングを左に切り込んでいく。
一つ目の攻防は余裕が制した。
その先、約3秒間の全開区間が2台に狂気の加速をさせる。
制限速度内であっても、余程車速を落とした同士ならば並列状態を作りだせるほどの道幅を、余裕と島は、その三倍以上のスピードで下っていく。
「やっぱり! よくぞそこまで!」
島が喜々として声を上げる。
余裕の車。
FD3Sは、余裕の素人整備の状態ではなくなっていた。
正志に教えられた、インター近くのディーラーには多くの見知った顔があった。
その顔ぶれは、余裕に、レース活動で全国のサーキットを転々としていた頃を思い出させた。
『勝ち逃げ』
そこにいた者、ほとんどすべてが、余裕にそう言ってきた。
それは、なによりも、他のどんな言葉よりも、余裕を和ませた。
余裕がディーラーに着いた頃にはすでに終業30分前になっていた。
敷地内に入った途端、看板を照らしていたライトが消える。
それが、営業終了ではなく、余裕の車を整備するためのものだったことに気づいたのは、駆け寄ってきた現店長である、元チーフエンジニアをしていた本山の一言だった。
『さて、今日はどうしましょう?』
相変わらずな色気のあるハスキーボイスで、あの時と全く変わりない笑顔でそう言ってきた。
「突貫工事で」余裕もそれに笑顔でいつも通りに答えた。
すでに、余裕の考えていた整備メニューに必要な部品は工場内に一切の無駄無く配置されていた。
『組み終わったら、セットだ』
手際よく手を動かしている、同じツナギを着てせわしなくしいている整備たちに、データエンジニアだった、恰幅のいい脇坂が激を飛ばす。
『はい!』っと、その声に全員が息を揃えて答えた。
余裕が一瞬、間に合うのか? と思えるほどの解体具合に、『その顔にあのころどれだけみんなが不安な気持ちになったことか』と、マネージャーだった道上が声をかけてきた。
「でしたね、それが原因で正志さんによく小突かれてました。すみません」
笑いながら余裕が謝ると、ニコッとしながらも、優しく頭を小突かれた。
『は、はじめま、して』
震えた声を出しながら、突然挨拶してきた顔を余裕が知るはずもなかった。
『その、4月から、メカで、ここに就職しました、土屋、と言います』
「よ、よろしくお願いします。は、はじめまして、新木余裕です」
相変わらず震えているその声は、余裕に伝染するほどのものだった。
『存じてます。『ジェニー・ルーム』でしたよね? お目にかかれて光栄です」
「え? は、はあ……えっと、あのー……?」
余裕は、かしこまった口調で、今聞くと赤面必須な、過去にそう呼ばれていた、いわば通り名で名指しされて困惑する。
『現役だった頃のあなたのファンだったんです』
現役だった……、ファンだった……。土屋の言葉は過去のものだった。
「あ、ありがとうございます。で、なにか?」
完全に余裕は気圧されていた。
『……なんでも、島阿樹緒と勝負するらしいですね? 正直どうなんです? 勝算はあるんですか?』
言葉の震えはいつの間にか止まり、土屋が
『バカ!』
後ろから土屋の頭を脇坂が思いっきり小突く。
どうやら、『小突く』という伝統は脇坂によって引き継がれているようだった。
『余裕にそんな大層なもんあるわけないだろうが! こいつは、昔っから最後まで、ぶっつけ、ひらめき、やってみないとわからんの三拍子でやってきたんだ。勝算なんて、こいつの頭には、しの字もないんだよ』
脇坂は、余裕のことを貶しという名のフォローと説明をした。
『ですね。そうでしたよね。だからこその『ジェニー』でしたよね』
涙を目に浮かべながら、重力が倍増しいたような中腰で、頭を両手で抱え込みながら土屋が言った。
二つ目コーナーにまたもフルブレーキで2台が突入する。
コーナー手前の最高速度は、120km/hを超えていた。
「ついてくるか……」
余裕の算段では、2コーナー侵入時で、一台分の差をつけているはずだった。
「AP2か、渋いね」
島の駆るAP2ことS2200は、純正の特徴を顕著に引き出すチューニングとセッティングが施されていた。
「あの狸寝入りオヤジの考えそうなことだな……」
余裕は、島の車の特徴を一つのコーナーと、ストレートの伸びで理解していた。
それは、余るほどに手の内を見せてきた、島のバカ正直とも言えるドライビングがあってこそだった。
「俺だけ相手の車の情報を知っているというのは、フェアじゃないでしょ!」
「エゴイストが!」
お互いの声が聞こえるはずはない。が、会話は成立していた。
二つ目のコーナーを立ち上がって、同様に余裕が先行する。
すると、二人の目の前に、このコース一番の難所である、S字とは名ばかりの、三度にわたる複合コーナーが見えてきていた。
「さて、『ジェニー』の異名を見せてもらいますよ……」
そう言ったかと思うと、島がアクセルを微妙に緩めた。
「巻き添えは嫌か?」
逆に、余裕は、ギアを3速から、一般的な峠道ではありえない、4速へとシフトアップせざるを得ないほどの加速体勢を作る。
「マジですか……それ」
島は、想像していたスピードを遥かに超えて加速していくFDに戦慄する。
コーナー進入時ですでに、2台の間には、一台半以上の車間が空いてしまっていた。
「うっ!」
前方で起きている、あまりにも現実離れしている光景に、島は瞬間的な吐き気を覚える。
それは、当事者ではなく、その目撃者である島に、絶望的な恐怖を与えたからだった。
「ちっ!」
次の瞬間、真っ赤に染まった景色に、島の舌打ちが車内に響き渡る。
それは、自分のブレーキポイントが、相手よりも手前だったということを嫌というほど知らしめられていたからだった。
右、左の順のS字コーナー。
そこには、この道唯一、ガードレールが施工されていた。
それ以外は、縁石と呼ばれる、主に、車道と歩道の区切りなんかに用いられるコンクリート製の、高さ15cm、長さ60cmのものが、点々と配置されているだけだった。
その理由は、狭い道幅を視覚的に広く見せるため、もしくは、極小な障害物でもって道幅を目一杯使えるということでもあった。
だがしかし、それらを無視してまでも、この区間だけにガードレールがあるというのには、事故多発区間という、面目躍如がまかり通っていたからだった。
右に旋回、そして、左……のほんの少し手前。
そこで、微妙に曲率が変化する。
その部分のガードレールには無数の傷が刻まれている。
「ふっ」
余裕は笑った。
激しいG《重力加速度》が右斜め横から激しくかかる。
それは、何度も味わってきた、心地の良いものだったからだった。
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