第29話 自覚。

暗闇の中の声。

その声は、しっかりと静の耳に届いた。


「あら? あなた、この間いた方たちとは違う人ね」

その声は、確実に、静に向かって放たれていた。

「意外ね。人を雇えるほどここが繁盛しているとは思えなかったから、驚いたわ」


強い。

何気ないその言葉に、なぜか静はそう思ってしまった。


「それにしても不思議なところね。お昼時だというのにこの暗さ。あなたもこんな状態じゃ不便でしょう? お仕事」


お仕事?

静は自分がいま、この目の前の相手になにを言われているのかが理解できない。


「聞いてます……? というか、見えてます?」

「見えてます!」

静は間髪入れずに答える。


「そう。なら返事をしなさい。こうして客が入ってきたのだから」

「客?」

「そうよ、私は客。そしてあなたはここの従業員でしょう」

「…違います」

一瞬の間をおいて静が言った。

「そうなの?」

その声は明らかに疑っていた。

黒い世界の中で、二人は、しっかり目と目を合わせて、赤色の会話していた。


赤と赤。

混ざりあえば、残るのはより濃い赤のみ。

この二人には、今、同時に、そんな同じ考えがあった。

けれど、明らかに違うものもあった。

それは、『競争心』。

そして、静にはそれがなかった。


『ちょっと! 静! どうしたの!?』

黒い世界を、枢の真っ白な声が切り裂く。


「あら? その声」

静が答えるよりも先に、少し離れた場所から声がした。

知らずうちに完全に耳元からはずしていた携帯電話を、急いで静が元に戻す。


部屋の隅からは時間の経過を知らせるように僅かな透明な光が馴染み始めていた。


「ごめん、枢。今、お客さん来てるから」

寂しそうに静が枢に答える。

『え? そうなの? ならしっかり接客しておいてよ。そうだ、時間的に部屋真っ暗でしょう? 電気点いてる?』

「……まだ」

『なにやってんの静! そのままじゃ静の絵が見えないでしょ! すぐに点けて、わかった?』

枢はそう言って電話を切った。


静は、切れた携帯電話を耳から離せなくなっていた。

「どうしたの? 要件は済んだのかしら?」

ゆったりとした声が携帯の当たっている右耳に入ってくる。

思わず静の顔が真っ赤に染まる。


「ごめんなさい。このままじゃ絵たちを見ることができませんでしたよね……いま電気点けますから」

ゆったりと、耳から携帯を引き剥がし、迷うようにして、静が体を動かす。


「大丈夫よ」

「え?」

「だって……ほら」

透明だった部屋に入ってきていた光は、声のするあたりまで届きつつあった。

光はもう透明ではなく、その色がそうだったことを知らせるように「ほら」とした肌色に変化していた。


「ねえ、あなた。私のこの絵の位置直してもらえるかしら?」

ほらとした肌色は、あの絵を差していた。


『くも』

作者は、その指が、手が、腕が、肩が、口が、耳が、鼻が、眼が、描いたものだった。


「スズカシキ……」

静は、物のように、無機物を示すように呟く。


「そうだったわね! あなた、ここの人間ではなかったんでしたわね。こめんなさいね!」

元気に、ハキハキとした口調で四季が言う。

「前回ここへ来た際に、その月の絵を拝見しましてね」

「つッ」

睨みつけていたといっても過言ではなかった目線を、自分の描いた絵、月の絵に急いで移す。

「なんというか、その瞬間私、年甲斐もなく腹が立ちましてね」

腹がたった。

四季がそう言った。

静は、今日、この瞬間まで生きてきて、自分の絵以外の絵に対して腹が立つことなんて全く、微塵もなかった。

他人の絵に対して自分の感情が揺らぐなどありえないといったほうが正しい。


「失礼承知で無言でこのギャラリーから出ていったの。だって、その月の絵が私、気に入らなかったから」

腹が立った次は、気に入らない。

もはや、静には理解不能な言葉にしか聞こえてこなかった。


「アトリエに急いで帰って、その『くも』を描いて、次の日朝一番にここへ絵を持って戻って来たの。しばらくしたら、オーナーのお姉さんがいらっしゃって、今日オーナーが仕事で来れないから自分が代わりに来たっていうから彼女にこの絵を見せて、置かせて欲しいってお願いして」

話が進むにつれて、四季が息を弾ませていく。

「私、その時、その月に並べて置いてって言ったの。今思えばそんな言い方しかできなかった私にも責任があるわね。並べてなんて言われれば誰だってこうやって置くに決まってるわ」

四季は、自分の描いた『くも』。静の描いた月の絵の両方を優しい眼差しで交互に見つめる。けれど、目元や口元は、それとは真逆の感情を装っていた。


「本当はどうやって置いて欲しかったんですか?」

乾いた唇を無理矢理に剥がし、静が聞く。


「ふふ、知りたい?」

そう言われた瞬間、静は、なにかを見透かされたような気がした。


「こうよ」

静は、初めて鈴鹿四季が動くのを目にする。

ゆったりと、けれど、迷いは無く四季が自分の絵を動かしていく。

「こうやって、最初から自分でやれば良かったわ……でも、しょうがないか……。だって、私、一瞬たりともこの月の絵を見ていたくなかったんだから……」


次第に四季の体は二枚の絵を隠すような形になる。

静の視界からは二枚の絵が見えなくなっていく。


怖い。

静には、これから見せられることになる、四季がどうやって自分の絵を配置するのかがなんとなく分かってしまった。


いやだ。

静は、逃げ出したくなる。


見たくない。

その言葉を言う資格は静にはなかった。


「出来た。こんな感じね!」

無邪気な声が静に届いていしまう。

静は、いつの間にか閉じていた瞼を開けることができない。


「でも、この絵、題名が無いわね。それに、ここに置いてある絵たち……、オーナーからは、ほとんどが一人のが描いたものだって教えられていたから。なるほど、だからね、題名の無い絵がこんなに沢山あるのは……可哀想に。」


可哀想に。

静にはその考え方を汲み取ることができなかった。


「題名が無いってそんなにいけないことなんですか?」

静の口が勝手に動く。


「そうよ。だってそれは勝負をしていないってことだから」

勝負。

四季がそう言った。


ゆっくりと静は瞼を開く。

すると、静の目には、想像していた通りの風景が映った。


白青しらあお

よゆう色ではなく。

白い、青。


それはまるで、よゆう色の月を隠した雲だった。


部屋の中はすでに黒い世界ではなく、晴天時の普段のギャラリーへと戻っていた。


黒のワンピースを着た女が、そこに立っていた


「『浅葱月』。私の月の絵の題名です」


静は知っていた。

自分がよゆう色と言っていたその色が、本当はなんと呼ばれているのかを。

以前、枢と焼肉を食べに行った際、新選組の隊服の色と言っていのを聞いて、それがどんな色なのか、抜け目なしに調べていた。


そして。

その色が、あの色で。

よゆう色とは、浅葱色あさぎいろだと知った。


「やっぱり。あなたがこの絵の作者だったのね」

そういうと、四季は、自分の絵の後ろに隠した静の絵を横にずらし、静に観えるように置き換えた。

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