第27話 夢。

「なんだったんだろう」

静はついさっきまでみていた夢を思い出しながら呟く。

夢というには具体的で、現実的な夢だった。


「顔洗おう」

真っ直ぐなど到底無理なハナシ。

静が、壁、扉に体をぶつけながら歩いていく。

洗面所の前に立つ。

目元は見たことのない位腫れている。

「ははっ、なにこれ」

静は、顔の筋肉を潰すように揉む。

「あーあ、どうしようかな……今日」

そんなことを考えるのは、静にとって初めてのことだった。


利き手の右腕は使えない。

画材はもうほとんど使い切ってしまって無くなる寸前。

なによりも、静自身が脱力していた。

こんにゃくのように柔く、自立できなくなってしまった足腰は重力に耐えきれずその場に倒れ込む。すると、起き上がり小法師のごとく地面に反発するようにバネのごとく立ち上がってしまう。


「なんだこりゃ――あはは」

そんな症状が面白いとでもいうように、誰もいない部屋で空元気な声を出す。


迷う静の脳みそに、ともいえるもう一人の静が、自分の生きている意味を思い出さようとしているように。


「そうだ、夢。あーもう、忘れちゃった」

静は、おぼつかない足に逆らいながら、洗面所を出る。そして、そこから部屋全体を見回した。


静の部屋は、『生きる』に溢れた空間。

その空間に目線をくれる。


「ここも、ここも、ここも、ここも、ここも、ここも、ここも、ここも」

確認し、認識し、目線を逃げるように逸らす。

逸した先には『生きる』がある。また確認し、認識し、逸らす。

また、また、また、また、また、また――。


「なんで!」

思わず静は叫んでしまう。


『治すのは静自身だからね!』


回復はした。

でもそれは、完全ではなかった。


枢の言葉。


「そうだよね。泣いて終わりじゃおかしいよね」

静は、両足の太ももを両手でパンっと強くはたき、無理やり力を込める。

「痛ってー」と悲鳴を出しながら、痛いという感覚のする右手を観た。


「描こう」

静かは自分に言い聞かせると、部屋を出た。

空は、昨晩の月夜のまま、これでもかという晴天だった。

「この空もだ」

静が足を一瞬止める。

「まず、休もう!」

そう言うと、どこかへ走り出した。



ギャラリー『S・S』。

枢が元々住んでいた分譲マンションを、そのままギャラリーというかたちにして運営している場所。


以前は静の描いた絵のみを置いていたが、名前も知られていない自称画家の絵など、そうそう売れることなどないため、最近では、枢自身が自腹を切って、いろんな画家の作品を買い集めていた。


「ひさびさ」

静は『本日休館日』と毛筆で達筆に書かれたプレートを裏返し、『ようこそ』に変えると、枢が、いつでも入れるようにと持たせてくれていた合鍵でギャラリーのドアを開け中に入っていく。(ちなみに、そのプレートに書かれた文字は椎が書いたものだ)


「ふーん、なかなか良いんじゃない?」

センス良く飾られた自分の作品以外の絵を観ながら、嫌味ったらしく静が言う。


『あんたの絵だけじゃやってけない』

ある時静は、そう枢に啖呵を切られた。

『だからといって、こんな中途半端でやめる気はさらさらあたしにはない。――絵を何枚か仕入れる。いい? シズ。あんたの絵じゃ駄目なの。ギャラリーとしてやってけない、成立しない。言いたいこと分かる? つうか、分かれ!』

脅迫のような激を飛ばされて、静はその時怒り狂ったのを思い出していた。


「……みんな……すごい……上手」

何枚かの絵を観ているうちに、静の言葉にさっきまでの嫌味は微塵も含まれなくなっていた


「これって」

ある一枚の絵の前で静が立ち止まる。

「空の絵……?」

描かれていたのは、水色というには薄すぎる色、その一色のみで塗られた絵だった。

題名は『くも』。

作者は、『鈴鹿四季すずかしき』。

美術に詳しくない人間でも一度は聞いたことのある、日本を代表する画家のものだった。


「雲の絵? ……私は描いたことない」

鈴鹿四季のその絵は、雲だとは一目では判断するのが難しいものだった。

普通に見たら、キャンバスいっぱいに薄い青色で塗っただけの絵。

多少の濃淡があるだけの、風景画というよりは、もはや、抽象画だった。


「でも、確かあの人の絵はもっとはっきりしてて、正々堂々で、正直な、まっすぐの絵。どうしてこんな絵を描いたんだろう?」

静はジーンズのポケットから携帯を取り出し、電話をかけ始める。


『ちょっと、今仕事中』

面倒くさそうに枢が電話に出た。


「ごめん」

『……いいけど。どうした?』

枢は、いつもと違う静の反応に少し困惑する。


「うん、あのね、今、S・Sに来てるんだけど……、鈴鹿四季の絵があって……。すーちん、この絵どうしたの?」

『静、呼び方』

「え?」

『すーちんじゃないでしょ』

「そっか……そうだったね……。ねえ枢、この鈴鹿四季の絵どうやって手に入れたの?」

『よし』

いつもの口調に枢は安心する。

『やっぱりその絵に喰い付いたか。その鈴鹿四季の絵はあたしが仕入れたものじゃないわ』

「どういうこと?」

『この間、そうそう、静が姉貴に絵を渡してった時あったでしょ? あの日、あたし休みだったから、夕方S・Sに静の絵飾るために行ったのよ。そしたら、すぐ人が来て』

とても仕事中だとは思えないノリノリの口ぶりで枢が話し始める。


『あたし、久しぶりの客だと思って玄関まで迎えに行ったの。そうしたら、そこに立ってたのが鈴鹿四季だったの!』

興奮して、電話越しの声が大きくなる。


「でも、すー、じゃない、枢、鈴鹿四季の顔知らないでしょ?」

静が珍しく問いただす。

『ああ、それは、姉貴も一緒だったから。いやー、あんだけあたしの口撃くらってへばってた姉貴が、部屋に入ってきた鈴鹿四季見た途端発狂したからねぇー。さすがのあたしもびっくりよ』

「しーちゃんとなにかあったの?」

『あんた、意外と冷静にひとの話聞くよね』

「そ、それで、どうしたの?」

枢の口調の変化に敏感に反応して静はすぐに話を戻す。


『まあいいわ。でね、こんな偶然ないって思ってあたし、恥も外聞もなく静の絵見せまくったの!』

「うわっ」

その状況を想像して、静のほうが恥ずかしくなる。


『でも、何枚か見せていくうちに興味がなくなったのか「他の絵も観せてもらってもよろしいかしら」って鈴鹿四季が言い出して。それ聞いてあたしムキになっちゃって。今考えればあの時姉貴に羽交い締めにされなかったらあたし、とんでもないことしてたかも』

その状況も静には容易に想い起こせた。


『姉貴がしきりに私が案内するって言うから、しかたなくさせて。三十分くらいかな、一通り見てあたしのとこに戻ってきたの。どうでした? ってあたしが聞いたら、あの女、ニコっと一礼して無言で帰ろうとしたの、我慢できなくてあたし、「お眼鏡に叶うものがなくて申し訳ありませんでした!」って言ってやったのよ!」

それを聞いて静が、「あちゃー」っと天を仰ぐ。


『そしたら、急に早足で戻ってきて。びっくりして一瞬身構えたわよ、あたし。でも、その理由が、あたしがその日持って行って、飾る前だった、静のあの満月の絵だったの』

静は枢のその言葉を聞いた瞬間、体中が粟立つのを感じた。


『ちょっと、聞いてる?』

「あ、うん。聞いてるよ」


なにかが起こる。

そんな漠然とした感覚に、確かな手応えのようなものを静は感じ取っていた。


『鈴鹿四季が、「その後ろのモノも絵なの?」って聞いてきたから、急いで被せてあった布を取って、やつの目の前に水戸黄門ばりの勢いでこれでもくらえって見せてやったの』

それを聞いて、静はよくやった! と心の中で叫ぶ。


『でもね、静のあの月の絵を見た瞬間、それまでニコニコしてたのが急に真剣な顔つきになってね。あたしも姉貴も一体なにがどうしたのか訳わかんなくなって、結構な時間ギャラリーが静まり返ったの。どうしたもんかなと思ってたら姉貴が声掛けしようと「あの」って声を出した瞬間、「明日また来ますわ」って勢いよく帰ってっちゃって』

枢の話を静は遮ること無く聞き続ける。

それは、『鈴鹿四季』という名前を見た時からプツプツと体に湧き上がってくる炭酸のような感覚の正体を注意深く探っていたからだ。


『それからあたしと姉貴、「あれ絶対怒ってたよね」ってなって、次の日あたしオペがあって行けないから、姉貴に店番頼んだの、明日来るかもしれないからって。んで、その夜に聞いたんだけど、オープンの少し前に姉貴がギャラリーに着いたら、マンション前で鈴鹿四季がその絵を持って立ってたんだって! コワくない? ん? でも、それってなんか静っぽいよね?』


枢の話の始終を聞き終え、もう一度、静は、ゆっくりと、鈴鹿四季の持ってきた『くも』の絵を観た。


ガチャりと部屋のドアが開く。

一人の客が部屋に入ってきていた。


けれど、静の意識は、漆黒の空間へと、深く、深く、誘われていた。

真横に並べられた二枚の絵。

静はその配置の違和感が、この正体不明な感覚をボヤけさせていることに気づく。


「あー、やっぱり。あの言い方じゃ、こう並べるわよね」


聞き覚えのない声に、静の意識は、真っ昼間のギャラリーへと強制的に戻される。

それなのに、静は自分が今いるこの場所がさっきまでの空間と同じだと錯覚する。


真夏の正午になると、ギャラリー内には一切の陽射しが入らなくなり、電灯が必要になるほど辺りが暗くなってしまう。


けれど、漆黒の空間にいた静の目は、その暗闇ともいえる中で、しっかりと声の主を見据えていた。


白昼夢。


今朝みた夢と、目の前の現実が、きれいに重なって。

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