第26話 けじめ。

「いい感じの夜だ」

『いい感じ』とは、全くもってなんの根拠もない、ふわふわしていて、無いのに有るようなものだった。


島との今日の予定を決めてから余裕は、もう一つの目的を果たすべく、あるところへ向かった。


コンコンコンと、ノックをする。

「……」

返事がない。


「あれ? 居ないのか?」

余裕はもう一度同じようにする。

「……」

やっぱり返事は返ってこなかった。

「時間ないし」

しかたないと、余裕がそっとドアを引く。


「あの」

開けたドアの隙間から覗き込むようにしていた余裕の背後から不意に女の声がした。

ガラっと、驚いた勢いそのままに半分ほど開けていたドアを余裕は閉めてしまう。

「どちらさま?」

その声に反応しないわけにはいかず、ゆっくり振り返る。

「あんた!?」

うすうす気づいていた声の主は思っていた通りの人物だった。


「どうも……お久しぶりです」

余裕はそう言うしかなかった。

「新木余裕っ!?」

その声はフロア中に響き渡った。

「ちょっと、枢先生!」

隣の病室から女の看護師が駆け寄ってきて枢に注意する。

「すみません、すみません」

枢は、看護師と、周りにいた患者たちに何度も頭を下げる。

「ぷっ」

思わず余裕は吹き出してしまう。

「な!? あんたのせいでしょう?」

枢は、顔中を紅潮させて、怒りの矛先を余裕に見せる。

「ごめん」

余裕がとりあえずといったふうに枢を拝む。


「今日はどうして……って、さっき、この部屋のドア開けようとしてましたよね?」

枢は言いながら、病室番号の書かれたプレートを見る。


「お見舞いですか?」

すっかり冷静さを取り戻し、余裕に聞く。


「はい、朽木正志さんの見舞いで」

「そうですか――どうぞ」

枢がノックもせず、一気に部屋のドアを引く。

そこには、イビキをかきながら気持ちよさそうに眠っている、朽木正志の姿があった。


「朽木さん、回診です。起きて下さい」

枢は、優しく肩をゆっくり揺らす。

「朽木さん」

「………」

「はあー、またこれ」

枢が困ったように言う。

「また?」

余裕が枢に聞く?

「狸寝入りです。この時間はいっつもこれだから」

「ああ、それで。それなら……」

余裕はそう言うと、物音を立てないように慎重に狸寝入りをしている正志に近づく。


「あの、今からそこそこの大声を出すのでドア閉めてきてもらっていいですか?」

余裕が枢に指示する。

「え? …わかりました」と言って、枢は怪訝な表情のまま半信半疑で余裕の指示に従う。


「閉めました」枢が頭の上に丸を作る。

その姿を見て余裕は、可愛いなと感じる。

「いきます」手のひらをメガホンの形にして、枢に知らせる。


「いっぷんごじゅうきゅうびょーーーーーう!!」

密室状態の病室に余裕の大声が響く。


「ちょっと!」

何故か声を潜めて、枢が注意する。


余裕は、あの時のように正志が殴りかかってくると、防御体制を作る。

「……………あれ?」

反応がないことに、思わず余裕が先に声を出してしまう。


「あんな音させて、よくここに来れたな」

十年ぶりに聞く声に、余裕が防御を解く。


「エンジンもだが、ブレーキ、ボディ、サス、全部ハナシにならんな」

正志は目は閉じたままで、窓の外を向きながら余裕に向かって言う。


「あんたに直してもらいたかったけど、そんなんじゃ無理だろ」

二人は目を合わせないまま会話を始める。


「お二人はお知り合いなんですか?」

枢が二人に聞く。


「ああ、うん。正志さんは」

「知り合いなんかじゃねえよ」

正志が余裕の言葉を遮る。


「…俺のメカニックだよ」

「メカニック――?」

「だった――だろうが」

余裕と正志の目が合う。


余裕は、横になっている正志を見たのは初めてだった。

サーキットでつい、うとうとしてしまうような状況でも、正志は独り瞳を見開いて、余裕の車の調整を行っていた。

ここまで無我夢中という言葉が似合う人間がいるのかと余裕は初めて正志にあった時のことを思い出していた。

朽木自動車での正志の働きぶりは一言に『鬼神』っといった感じだった。

それが原因で、従業員が入っても、正志の与える仕事量についていけず、すぐに辞めてしまうのは日常茶飯事だった。

そのことがより一層、正志の鬼神ぶりに拍車をかけてしまっていた。


その正志が、狸寝入りなんて……。

何故か余裕は、その正志の態度に怒りを覚えていた。


「さっきのあれなんだよ?」

「あ? さっきの?」

「なんで狸寝入りなんてしてんだって聞いてんだよ?」

「ちょっと……」

二人の会話が最初から喧嘩腰なことに、枢が困惑の声を出す。


「別に…、やることがないだけだ」

そう言った正志の顔はまるで、拗ねた子供のようだった。


「なんだよそれ。先生に呆れられるようなことしてんじゃねえよ!」

「ちょっと! 新木さん!」

急いで枢が余裕のことばを取り繕う。


「お前には関係ないだろう」

「あるよ。あんたは俺の仲間だからな!」

余裕のこの性格。

そのことが及ぼす言動は、一般社会では受け入れられにくいものだった。


良い意味で平等。

悪い意味で傲岸、傲慢、自己中、我儘、上げれば切りがない。

とにかく、一般的には『普通ではない』と思われることが普通だった。


「相変わらず、生きにくさを地でいってるな。ほんとバカだよ、余裕は」

久しぶりに正志の口から直接聞く自分の名前に、余裕の瞳が揺らぐ。


「そんなことじゃ、未だにいい人なんて出来ないだろう。なあ、先生?」

「ふぇ?」

突然話を振られて、枢はすっとんきょうな声をあげる。


「そ、そうです、か、ね……えっ?」

明らかに焦っている。

「ん? どうした、先生?」

「べ、別になにも。そんなことより、朽木さん! こう言ってくれているんですから、もうやめて下さいね、狸寝入り。看護師さんたちも困り果てているんですから」

平静を装うように、枢が、正志に注意する。


「……」

「? どうした?」余裕が聞く。

「朽木さん? 大丈夫ですか?」枢が心配して聞く。


「………妙だ。部屋に入って来た時の会話の雰囲気からして顔見知りみたいだったし……。もしかして、先生が余裕の『いい人』とかか?」

「……」 「……」

一瞬、余裕と枢の時間が止まる。


「違うわ!」 「違います!」

タイミングぴったりに、二人が否定した。

「な!?」

あまりの二人の熱量に、正志が上半身をひねり、のけぞる。


「このひとは……いいですか?」

枢はそう言って、余裕の顔を伺う。

「……いいよ」

余裕は真剣な顔で、枢に答える。

「このひと…新木余裕さんは、姉のです」

「は?」

枢の答えに、今度は余裕がすっとんきょうな声を出してしまう。

「そうなのか?」と、正志が純粋無垢な顔を余裕に向ける。

「……みたい」中途半端に余裕が言う。

「なんだよ、そりゃ」正志が呆れたように、ぷいっと背ける。

それを見て、思わず余裕は枢に視線を移す。

すると、ぷいっと、同じリアクションを枢にとられてしまった。


「はーあ。……それじゃ、俺もう行くわ」

拗ねるように余裕が言うと。

「もうお帰りですか?」と、枢が余裕の顔を見てきた。

「……はい。このじじいのことよろしくお願いします」

余裕は、正志が見ていないことを確認しながら、深々と枢に向かって頭を下げた。


「はい。承りました」

枢はしっかりとした口調で余裕に言った。


「もう一度来るから。それまでくたばるなよ」

体全体を背けたままの正志に向かって、余裕は言い捨てるようにして部屋を出ようとした。


「インター降りたとこのディーラーにもってけ」


突然の正志の言葉は、余裕が今日ここに来たことへの答えだった。

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