第23話 追憶。(前編)

余裕にも過去があった。

良いものにしろ、悪いものにしろ、色々あった。


その中でも、朽木レーシングに関わるものは全て、良いものに分類されている。


20代すべてをかけた。

命を削るように、いいや、実際、時間と言い換えるのであれば、確実に削った。

そして、削りきってしまった。


「この先の喫茶店だよな」

元、朽木自動車に行き、不動産屋の後輩、島阿樹緒しまあきおに聞いた情報を便りに余裕は待ち合わせの場所に向かっていた。


現在の朽木自動車についてを色々聞けた。

社長である朽木正志くちきまさしは、現在体を悪くし入院していること、そのことで、あの場所にあった朽木自動車を畳んだこと、朽木レーシングがどうなっていったのか。

それらの、余裕が居なくなってからの朽木自動車のことを聞いた。

聞いている間、余裕はずっと、苦く、すっぱく、甘い、味覚を感じていた。


思い出などどいうものは余裕にとってどうでもいいものだ。

それは今現在、こうして待ち合わせをしている状況でも変わっていない。

記憶は、なんとなくの類。

だから、これからその人物に会ったところで、どうこうしようなどとは微塵も思っていない。

今更。

そういうものだと答えがはっきりと出ていた。

ただ、会いたいから会う。そんな感じだった。


「ここだ」

駐車場に軽トラを停め、店のドアを引く。

店内を見渡すと、見知った顔に気づいた。

けれど、それは、少し違って、違和感や勘違い、思い違いを余裕に起こさせていた。

思わず、気づいていないふりをして、見回す振りをわざとらしくする。


「余裕さん!」

意識していたところから余裕を呼ぶ声がする。


「おう」

右手を高く上げ、慣れていない仕草を余裕はとる。

待ち合わせた人物のいるところまで小走りで駆け寄る。


「久しぶり、元気だったか?」

優しく余裕が声をかける。

「はい!」

元気な声が返ってくる。

「いくつになったよ? 啓介」

「今年二十歳になりました」

「うそだろ、まじか」

つい、口調が若返る。


「もしかして、俺よりデカいか?」

「余裕さん小さいですもんね」

「はあ? お前だってあん時はコレくらいだっだたろう」

余裕は、右掌を床から30センチくらいの高さへと持っていき小刻みに上下させる。


「ですね」

「いや、ツっこめよ!」

「ですね」

「ですね。じゃねえよ」

「『そんな小っちゃくねえよ』とかですか?」

「おせえぇよ」

「ですね!」

喫茶店内にふたりの笑い声が響く。


思い出が思い起こされていく。

記憶が鮮明に再生されていく。

あの時の言葉、感情が体を動かす。


屈託のない笑顔というものを、余裕は久しぶりにしていた。

心から楽しいという時間を久しぶりに体感出来ていた。


「正志さんからだ壊したって?」

「ええ、まあでも、親父も歳でしたし、ここらで大人しくしていてくれたほうが俺としては安心ですけど」

そう言った啓介の顔は、完全に自立している大人の顔だった。

現実という認識をボヤけさせつつあった余裕は、一気にはっきりと自意識を取り戻させられる。


「そんなもんか」

余裕はどんな表情をしていいのか分からず、中途半端に笑ってしまう。


島との電話のやり取りで、現在の朽木家のことを聞いていた。

正志の病気のこと。

奥さんであるともが3年前に亡くなっていたこと。

大学への進学を諦め店の手伝いを啓介が選んだこと。

啓介には兄弟がいない。

なので、現段階での朽木家は正志と啓介の二人だけになってしまった。

余裕が朽木自動車を離れて十年そこそこで、朽木家の環境は大きく変わってしまっていた。


「余裕さん、今まで何してたんですか?」

その啓介の言葉は、本人が思っている以上のものを余裕に与えた。

意味、重さ、感情、意図、責任。

それらは、避け、躱し、時には逃げてきたもののオンパレードだった。


「余裕さんがチームを離れてから、1年くらいして島さんがチームに入りました。親父は初め、あいつ以外にうちの車を乗せるくらいならレースをやめるって言って、そこから半年くらい一切サーキットには行かなくなったんです。でも、そのことがきっかけで、話を聞きつけた島さんが親父を説得して少しずつですけどまた、親父はサーキットに出て行くようになりました」

啓介は、父親がレース活動をしなくなったことを「サーキットに行かなくなった」と言った。

余裕はその言い方がとても啓介らしいと思った。


余裕が朽木自動車に入り浸るようになったころ、啓介はまだ小学生で、ほとんど工場に顔を見せることはなかった。

『あいつは車よりも、絵を書くことが好きみたいでな』

寂しそうにそう言う正志の顔を余裕は今でも鮮明に思い出せる。


ある時、端に金色のテープの付いた画用紙を丸めて、啓介が学校から帰ってきたことがあった。

普段なら工場には立ち寄らず、まっすぐ自宅に向かうのに、その時は工場の中に入ってきてまでして「ただいま」と正志に言ってきた。

余裕は珍しいと思い、「こんにちわ」となんとなく啓介に挨拶をした。

すると啓介は、無言のまま余裕の近くまで寄ってきて、画用紙を持っている左手を力強く余裕に対して差し出してきて「あげます。」と一言いうと、「おれに?」という余裕に無理やり手渡し走り去っていった。

始終を見ていた正志が「なんだ、あいつ?」と言って余裕に近づいて一緒に啓介のくれた丸まった画用紙を開いた。


そこには、とても小学生が描いたとは思えないほど、細部まで緻密に描き込まれた車の絵が描かれていた。

正志は「ふーん」と言って、すぐに仕事に戻ったが、その背中が小さく揺れているのに余裕は気づいた。


青でも、緑でもない色のボディカラー。

片減りし、溶けたコンパウンドが不規則に張り付いたタイヤ。

高速走行時の飛び石によって付いた、傷だらけのフロントバンパー。

リヤタイヤ上のボディに書かれた、『K.R.T.』のロゴタイプ。

そして、車が仕上がると、余裕と正志が最後に必ずそこから全体を眺めながら「いいねー」と猫なで声を出す角度で、その絵は描かれていた。


「これ、啓介くん、いつ描いたんですかねぇ?」そう余裕が正志に聞くと。

「知るか」と背中越しに言った。


「でも」と言うと。

「適当に描いたんだろう」そう言って、正志は奥に引っ込んでしまった。

「いやいや、だって、この角度。それに、この色。世界中に一台だし。それに、ロゴだって」

余裕は振り返り、いつもの形で停めた自分の車に目をやる。


四切画用紙に描かれた自分の車。

余裕はその角度になるように体勢を作る。


「どこが車よりも絵だよ。どう考えても好きだろう。じゃなかったら描けないだろう、こんな絵……あっ」

余裕はそう言うと、気付く。

どうして正志が背中を揺らしたのかということに。

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