第22話 瑕疵。

反対。

思っていたものの「反対」。

信じていたものの「反対」。

自分と「反対」。

右の「反対」…は左。


「そんくらい簡単ならいいのにな」

静は、空を見ていた。


それはとても稀で、もしかしたら無駄と同意義になってしまうものだった。

見たは、静にとってはとなる。


絵がずべてである静。

それが今揺らいでいた。

人生初めての経験。


マジックアワーと呼ばれている黄昏時。

頭上には、その名に相応しく、ピンクと紫の混じった、珍しい夕焼け空がひろがっている。


けれど、静はただだけだった。

「涼しい」

その言葉も珍しい。

「もうすぐ夏も終わり」

これも珍しい。

「次は秋」

これは少しだけ静らしい。


「イデム、もう行けない」

あれから、普段ならば電車を使って帰る道筋を、静は徒歩で帰っていた。

大人の足ならば、特段無理な距離ではないが、それでも、歩くという距離にしては、常識的にそうしないのが妥当な距離だった。

普段と違う方法を静が選んだのは、本能で、自分を見失わないよう望んだからだろう。


「絵具、全部置いてきちゃったし、今あるのだけじゃ、次の絵なんてかけないよ」

他人事のように静は呟く。

帰る道すがら、静の目線はずっと、ピンクパープルの夕焼け空をままだった。


アパートの階段を上り、自室のドアを開け靴を脱ぎ、一歩室内に足を踏み込んだ瞬間、鉛のようになった両脚を認識する。

そのことに静は鈍感に対応してしまう。

次の瞬間。

「あ」

何もないところで躓き、受け身も取れず転んでしまった。

同時に、「ボキっ」という明らかな音をたてた。


「いったーーーっ!」

転び方がまずかった。

結果的に、静は、利き腕である右手首の骨を折ってしまうことになった。


               *


「いい機会じゃない?」

「え?」

「…まあ、なんていうか、あれよ」

「なに?」

「ん? だから、その、」

「だから何?」

「うっさいわね、休めってことよ!!」

何かを決心して枢は静に怒鳴った。


あれから静は、一晩右手首の激痛と、異様な腫れ具合に恐怖しながら一睡もできずに朝を迎えた。

いよいよどうしようもなくなって、最終手段である枢に、すでに骨折している右手首のことを電話したのは昼過ぎだった。


ある程度の呵責かしゃくを覚悟していた。

しかし、電話から聞こえてきたのは慰藉いしゃだった。

『いつ?』 『どこで?』 『症状は?』 『他に痛むところは?』 いかにも医者らしいその言葉には、ほんの僅かな怒りが込められていた。


『すぐに来い』

最後の枢のその一言に、我慢の限界を静は迎えてしまった。

骨折したときも、憧れの羽生に罵られたときも、そうはならなかった。

そもそも、静自身がその行動をとってしまうことが嫌だった。


溜めたものを溢れさせる。

発散、発露、吐露。

自分に内包しているものが、体外へと出ていってしまう。

流れ出ていってしまいそうで、静はほとんど涙など流したことがなかった。


滂沱ぼうだしていた。

とめどなく流れる水分は、何時間も溢れ続けた。

今まで我慢してきたことが仇となってしまったように、それはそれはいつまでも、留まるところを知らず流れ続けた。


「休むかぁ」

「そう、休む。」

静と枢は、病院の屋上で空を眺めながら会話していた。

横目で、静に気づかれないように、枢が骨折している右手首を一瞥する。

その流れで、静の横顔も一瞥する。

寂寥せきりょうな表情、弛緩しきっている体、目元は薄っすらと隈が出来ていた。

健康体とイコールな静がこんなふうになってしまったことを、枢は憐憫れんびんだとは思えなかった。

ただ不思議だなと感じただけだった。


利き腕が使えない。

枢は、そのことがどれだけ静にとって致命的かは十分理解している。


「どのくらいダメ?」

「普通なら3ヶ月」

「ふーん」

あっけらかんとしている。まるで他人事のように。


「どうすんのよ」

「なにが?」

「なにが? って、書けないんだぞ、3ヶ月も」

はっきりと静のほうを見ながら枢が言う。

「なに言ってんのすーちん。さっき休めって言ってたじゃん」

静は空を見つめたままだった。


「あんたねぇ! ……もういいわ。なんかさっきからずっとあたしだけ必死になって、バカみたい」

「すーちんはいつも必死だよ」

「はあ!?」

思わず立ち上がり、見下ろすかたちで枢が静に顔を向けた。


「だって、だからすーちんだし」

「え?」

枢が座り直す。


「ねえ、私ってどんな?」

おもわず静と枢の目が合う。


「決まってんじゃない、『夢』よ!」

即答だった。

はっきり枢がそう言った。


「夢、私って夢なの?」

「そうよ」

何故か枢は胸を張る。


「それって」

静が聞く。


「夢をもってる。夢に向かってる。ってことでもあるけど、あんたの場合、逆っていうか、夢が静に追随してる感じ。だから、あたしが『必死』なら、シズ、あんたは『夢』」

満足そうに枢は言い放った。


「そっか……そうなんだ」

同じかおで静が言った。


「ねえ

「な、なに?」

静は、久しぶりに名前で呼ばれたことに、少しばかり動揺する。


「あだ名やめない?」

「え?」

「『すーちん』『シズ』ってやつよ」

「えー。だって、ちっちゃい時からだから、今さらはキツいよ」

「でも、友達に下の名前で呼ばれたことないでしょ?」

枢の言葉に、静は眉間に眉を寄せる。


「あるよ。しーちゃんだって私のこと『静ちゃん』って呼ぶし、それに」

「呼び捨てでってこと」

寄せた眉を通常位置に静が戻す。


「……ない」

「でしょ。だから、今からあたしは『静』って呼ぶし、静は『枢』って呼ぶ。いいね?」

「でも、すーちんはすーちんだし……」

再び、静が眉を寄せる。


「自分大好きでしょ、静って」

枢の顔は半笑いだった。

無理にしているその表情は、歪み、十分に美人な枢の顔が最大限に崩されていた。


「そういう人間って、他人に気を使わせるのよね。ま、こんなことをあんたに言ったところで無駄だろうけどね」

枢はさらに顔を歪ませる。

静は何も言い返せないでいる。


「ねえ、静」

さっきからの『静』呼びに、耳だけが追いつく。


「さっきの答え、絵だと思ったでしょ? それか、もしかして、そう言って欲しかった?」

「……」

「昔っから、あんたの周りには、静イコール絵っていう連中ばっかりだったでしょ。もしくは、絵がきっかけで静に興味をもったとか…。男女関係なく。あたしもそのちのひとり」

枢は空をながら言う。

「……」

静は、次に何を言うのかと、枢の顔をまじまじと見ている。


「でも、それっておかしいって最近気づいたのよね。だって、人を好きになるのにきっかけっていらないもんね」

「!」

枢の言葉に思わず静は目を見開いてしまう。

昨日の出来事が一瞬にして脳内を駆け巡る。

羽生に言われたこと、表情、仕草が、無惨にも鮮明に思い起こされていく。


「静、あんたはその典型だし。あたし、それが気に入らなくてね」

「どういう意味?」

静は珍しく、怒りの表情を枢に向ける。


「だってズルいでしょ、それって!」

枢は、再び立ち上がる。


「だから、あたしも同じスタイルでいく!」

枢は、静の顔面めがけて腕を振り下ろす。その手は静を指差していた。

それは、枢という人間の強さを表していた。


「「悩むなんてあんたらしくない」。前までのあたしならそう言ってた。けど、「悩みあるんでしょ」だから。NEW遠明寺枢は違うから」

「……っ」

静は我慢する。

誤魔化すために、顔をそらし空を上げた。

泣いてはいけない。泣いたら負け。

何度も自分にそう言い聞かせる。


「でも待って…、それって…」枢が言う。

「あんまり変わってなくない?」静が滲んだ声で付け足す。


ほぼ同時だった。

二人は空を観ながら大きく笑っていた。


「なんかこれも」静が言う。

「毎回おんなじオチじゃない」枢が滲んだ声で付け足した。

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