第21話 記憶。
何度走っただろう。
余裕は、過去の記憶とのすり合わせをしながら、軽トラを走らせる。
車速を上げる。
ステアリングを素早く右左へと回す。
懐かしい動作に自然と口角が上がって行く。
普通車ならばすれ違いざまに減速し、ドライバーによっては車を端に寄せ止め、すれ違いをやり過ごそうとする、そんな道路幅の道。
余裕はそんな道を、法定速度の倍以上で走っていた。
「おっと、ここ、跳ねたな」
そんなことを言いながらも、躊躇なくアスファルト舗装のギャップにタイヤを乗せてしまう。
ドンッという音と共に車体が傾く。
「そうだった、軽トラだった」
反対車線に飛び出した車体は完全に浮き上がり、車としての機能を失う。
「まずっ」
四輪がそれぞれ違ったタイミングで着地する。
その瞬間、激しいスキール音と共に、車があさっての方向を向きそうになる。
「よっと」
考えて動かしたというよりは、体がそう動いたという感じに、一般的な運転とは程遠いハンドル操作をする。
その操作に答えるように、常識的な車の動きでは到底ない反応を軽トラは起こし、綺麗に左車線内へと吸い込まれるように戻っていく。
数秒前の出来事が嘘のように、一般的な走行ラインへと余裕は軽トラを修正していた。
「おし!」
完全に姿勢が整うとほぼ同時に、アクセルを目一杯踏み込む。
ここまでの間、軽トラの車速はほとんど変わっていなかった。
余裕の視界には2種類の景色が写っている。
リアルタイムである、フロントガラス越しの一般車の倍で流れていく景色。
もう一つは、さらに倍のスピードと、30cmほど低い目線の、灰色の世界。
「楽しっ!」
すでに余裕の感覚は、二十代前半へと退化していた。
アドレナリン、ドーパミン、ヘモグロビン、よく分かっていないそれらが、大量に分泌され、五感をボヤけさせ、一つへと集約されていく。
やがて灰色だった景色は、白やんでいき、物の輪郭をさえ消し去る。
真っ白の世界。
よくアスリートの世界でゾーンと呼ばれているもの。
スローモーションに流れる景色、音を遮断し、何をどうすることが正解なのかということを瞬時に理解できる世界。
余裕は何度も経験しているその感覚が苦手で、嫌いだった。
ただ白いだけでの空間。唯一見て取れる路面、スピード感が消え、外の世界と強制的に遮断され、雑音や情報が入ってこない世界。
余裕は、その世界に恐怖することしかできなかった。
早く音を、輪郭を、色を。
そう願い、ただ世界からの開放を待つしかなかった。
回復していく理性をフルに使って、一個になってしまったモノを、視・聴・味・嗅・触の感覚に分散させる。
「よかった――」
余裕は減速し、法定速度に流れる景色を確認すると、窓を開け風の音を聞く。真一文字に結んだ口角に侵入した汗を舌舐めずりし、峠道の青々とした匂いを嗅ぐと、夏を確認できた。
背中にかいた大量の脂汗に、生きていると実感する。
「――あ」
気がつくと、目の前に目的地である『朽木自動車』の看板が見えてきていた。
「あれ?」
軽トラを店前に停め、降りると、余裕はすぐに異変に気づいた。
工場内に車を入れるためのシャターは完全に降ろされ、すぐ横の事務所からは人の気配が感じ取れない。
「休み…か?」
余裕は、奥の自宅がある方へと足を進める。
「!」
本来あるはずのものが、そこには無かった。
腰くらいまで伸びた雑草が空間一杯に生え、余裕が足でそれらをかき分けていくと、丁度敷地の中心くらいの場所に、『売地』と赤地に白い文字で書かれた合板が、木製の杭に釘で打ち付けられ、立てられていた。
「なんだよ、これ」
余裕はすぐに、売地と書かれた文字の下にあった不動産屋の電話番号に電話をかける。
3回のコール音ののち、『はい、飛鳥不動産です』と事務的な声が聞こえた。
「あの、今、朽木自動車に来てるんだけど、売地ってこれ、どういうことですか?」
焦り気味の声で余裕が聞くと、
『ああ、朽木さんのとこの土地をご検討ですか、それならば一度お手数ですが、弊社までご来店願えますでしょうか?』
見当違いな返答が返ってきた。
「いや、そういうことではなくて。正志さんは今どこにいるんですか? それに奥さんや啓介くんは?」
『お客様、朽木さんとはどういうご関係であられますか?』
明らかに怪しんでいる口調で従業員が聞き返す。
「あの、おれ、じゃなくて私、新木余裕というものです。以前正志さんに、朽木自動車に世話になっていて、久しぶりに店に来てみたらこんな状態で、それで」
『新木…さま…』
余裕の言い分に、そう言って従業員は、少し考え込む。
『もしかして、朽木正志さんのチームに所属していた方ですか?』
「え? あ、はい! そうです!!」
思ってもいなかった答えに、余裕は思わず声を上げてしまう。
『やっぱり! じゃあ、あなたがあの余裕さん!』
「え? は、はい。そうですけど」
『いや、実は、あなたのお話は朽木さんから何度も聞かされていましたので、つい嬉しくなっちゃって』
機械的な声は、血の通った抑揚のある声に変化していた。
「そうだったんですか、あの、それで正志さんたちは?」
『ああ、そうでしたね…』
余裕の問いかけによって、高揚した声色が一変して低く響く。
『正志さんとは連絡は取られました?』
最初の事務的で、無機質な声へと、従業員は意図して戻したように余裕に聞く。
「いえ、思いつきでここに来てしまったので…」
『そうでしたか…』
「あの、正志さんたちになにかあったんですか?」
『それについてはお客様の個人的なことですので、私の口からは申し上げられません――』
余裕の頭の中が?で埋め尽くされていく。
『ですが、あなたがあの新木余裕さんと証明していただけるのであれば』
「FDです」
余裕が相手を遮って答える。
『え?』
「俺の乗っていた車です。正志さんから俺の話を聞いていたあなたならこれで十分でしょう?」
『はい』
はっきりした口調で従業員が答える。その声には熱がこもっていた。
「失礼ですが、お名前は?」
『島です。あなたが辞めた後、朽木レーシングチームでドライバーをしていた、
――朽木レーシングチーム。
あの時、毎日のように口にしていたその名前を、余裕は十年ぶりに口にしたいた。
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