第20話 憧れ。

「これと、これ、あとは…」

必要以上な笑顔の静が物色している。


「そうだ! あれも。あるかな?」

レジに向かおうとしていた静は踵を返す。


「どうしたの、静ちゃん」

商品陳列棚の角を曲がろうとした静に、正面衝突の形で羽生が声を掛けた。


「きゃ!」と、静自身、出したことのないことを自覚する声を上げた。


「おっと、ごめん。大丈夫?」

「ひゃ、ひゃい。大丈夫です」

今までで一番羽生と接近したことで、静の心臓は、本来の機能と違う動作を起こしそうになる。


「あれ? 今日は油絵具ばかりだね」

羽生は静の持っている店内用のカゴの中を見ながら少し不思議そうな顔をする。

その言葉を聞いて、静は少しだけカゴを隠した。


今日、この画材屋イデムには、はっきりとした目的があって静は来店していた。


それは、兎に角色、なんにしても色、全てにおいて優先すべきは色だと。

そんな状態に、静がなってしまっていたからだった。


今や、色というものは、何千、何万色と売られる時代。

イデムのような専門店ならば、常時それらが手に入れることは容易といってもいいほどだった。

なのに、いや、だからこそ、画家と呼ばれる人間は、その『色』を追求し、実現するという欲求を満たそうとする。

そして、その無謀ともいえることに莫大な時間を費やす。


ならば、もし、その欲求を瞬時に、正確に、思い違うことなく実現できてしまう人間が存在してしまっているとしたら……。


僅かなものを拡張してしまう感覚。

大きなものを小さく凝縮する感覚。


三原色どころではない。

四原とも五原とも、もしかしたら十原ともいえるほどに、色の広がりというものを、どの色とどの色で、どれだけの割合で混ぜれば望んだ色を生み出せることができるか。

そんな感覚が備わってしまっていることに、静は気づいてしまった。


「…羽生さん。…ひとつ聞いてもいいですか?」

枢が聞いたことのない声色で静が羽生に言った。

メリハリがなく、僅かに震えているその声は、以前、静がなんとなく言った言葉を聞いた羽生が涙を流した記憶が原因だった。


「なに?」

普段通りの羽生が呑気にそう言う。


「羽生さんは、以前画家してましたよね」

「うん、そうだよ」

「なんで、ですか?」

「どういうこと?」

「疑問に問いかけられるのは好きじゃないです」

「……そっか、ごめんね。」

なにかおかしい。

普段とは違う感じを静は感じ取っていた。


「静ちゃん、その答えならもう静ちゃん自身が解っていると思うよ」

「そうですね、解って聞いたんです」

「分かってたんなら聞かないでよ」

羽生は、苦虫をつぶしたように顔を歪め、絞るように声を出した。


「自他ともに認められたのに、どうしてそれを諦めたのか、やめてしまったのか聞きたいんです」

依然震えた声で静が言う。


「君は、自分が画家だと言えるかい?」

「言えます!」

震えを払拭するように、強く静は言った。


「なんで?」

冷たく、冷静な眼差しで羽生は、震えている静の唇を見ながら言う。


「せ、成長してるからです」

そんな羽生のことを、静は、見ながら話すことができなくなる。


「成長か…。それなら僕もしてるよ、今も」

その言葉に、静は思わず羽生と目を合わせてしまう。


「どうも君は僕のことを見くびっているようだけれど、それは大きな間違いだからね。と同時に、僕が、君が自分のことを画家だと言えてしまうことを否定しているということでもあるから」

先程から、羽生の、静への呼びかけは「静ちゃん」から「君」へと変化している。

「それと、」

羽生の口撃はまだ続く。


「いいかい、君みたいな大した実績も、実力もない人間が僕は一番嫌いなんだよ」

羽生が今言った言葉を聞く前からすでに、まばたきすら許されないほどに、静は血漿を作ってしまっていた。


他人の前で泣くという行為を静はよくしていた。

枢や椎。学生時分の友人、実家に来た客たち。

その行為の重要性が静には欠けていた。


なのに、それなのに。

今、この瞬間だけは、その行為をしていけないと、自分の感情を、心を、殺す。


「このイデムに来る人達はみんな、君みたいな人間ばかりだ。どこかで僕を下に見る。自分は現役だと。あんたは引退しただろうと。安っぽく言えばそんな風にして僕のこの店で画材を買ったり、世間話をして、満足して帰っていく」

我慢の限界を静は迎えつつある。


「苛つくよ、まったく。君たちみたいなカスが自分のことを画家だと言って成立させるなんて」

「そんな、わたしは…」

「さっき言ったよね? 僕が諦めて、やめたって。そこにかこつけて成長してる? ふざけたことを言うなよ」

羽生は、肩を震わせ、それにつられて言葉も同様だった。

口からは唾を飛ばし、顔を紅潮させ、首とこめかみには血管が浮いている。


怖い。

静は最初と違う、何倍にも増幅した体の震えを、両手で自分の体を抱くようにして必死に収めようとする。

すぐにでも身をかがんで、ダンゴムシのように体を丸ませ、世界と自分を遮断し、全てをやり過ごしたいと思う気持ちを、かろうじて踏み留ませる。


「どうしたの? さっきからずっと震えてるみたいだけど」

一番言って欲しくない言葉を、羽生は静にかける。


「お、怒らせてしまったのなら誤ります」

「別に、そんなことをしてもらいたくはないよ」

「…で、でも、ご、ごめんなさい」

「……」羽生の目は静の真っ赤に充血した両目を見つめていたが、静には体全体を舐めるように睨まれているとしか思えなかった。


いつもと違う店内は、熟知していた輪郭を余計に強調し、普段の何十倍もの緊張を静の内側に与える。


人生で初めての眩暈げんうん

辟易へきえきしそうな気分。

含羞がんしゅうしている意識。

それらが忸怩じくじたる思いを静に与えてしまった。


静は、慟哭どうこくしていた。

子供のように、赤ん坊のように、もしかしたらそれ以上に、いや、以下に、滂沱ぼうだしていた。


認めたくない。

自分は間違っていた、間違った事をした。


認めるわけにはいかない。

否定しなくては。


認められない。

誤魔化さなくては…。


気づけば静の目には、街の人混みとビル群。

黒色の景色が写っているだけだった。

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