第19話 過去。

『上手ですね、運転』


余裕は最近言われた言葉を脳内リピートしていた。


徐ろに、自室の本棚から英和辞典を取り出す。


「リ、だから…アールか。えっと、ピー、キュー、アール……あった」

余裕は何故か、リピートという単語を辞書で引いていた。

実際、なんとなくその意味を知っていたし、それで合っているという確信があった。


「繰り返す、反復する、復唱する、えっ?」

辞書には、思っていた通りの意味が記されていた。

しかし、その最後の表記に、思わず余裕は絶句してしまった。


『繰り返す・反復する・復唱する・


予測と違った、思いもしなかったものがそこにはあった。


「そりゃそうだ。」

一言言って余裕は下唇を噛み締めた。


トントンと、自室のある2階から1階へ階段を降り、玄関を開け外に出る。

その足で、仕事で使う道具類や資材の置かれている倉庫の前まで行くと、シャッター上げた。


その中に余裕は入っていく。


吹き抜け状の倉庫は、今となっては必要以上に広かった。


様々な道具や、建築資材、諸々が適度に整理されて置かれている。

その一番奥。


そこには、止まった夢があった。


「…」


もう何年も動かされていないは、しかし、いますぐにでもと、臨戦態勢を取っているようだった。


青色というには薄く、水色まででもない中途半端な色のそれは、事実上死んでいるにも関わらず、生命力に満ちている。


余裕はその体の輪郭に沿って人差し指でなぞる。

だが、リアクションはなく、ただ、人差し指の先に埃が付いただけだった。


「年取ったよな、も」

余裕が触れた部分だけが本来の色を浮かび上がらせている。


取っ手に手をかけ引く。

ガボっという鈍い音。

雨水を防ぐためのゴムが、長い間動かされていなかったため粘つき、拗ねたかのようにその行為を拒む。


「やっぱり良いよな、この匂いは」

中に乗り込むと、余裕は無意識にシートの調整をする。

その位置が自分にとってベストなポジションの状態へと調整を終えると、前方へと両手を伸ばす。


手のひらに吸い付く感じ。

背中にピタリとフィットし、体を包み込むシート。

足を伸ばすと、以前と変わっていない自分の体型が確認出来た。


余裕は満面の笑みだった。

自分と、もう一人分しかないスペースがそうさせていた。


自然と心臓の鼓動が速くなっていることに気づく。

けれど、瞬時に今のこの状態がここでは当たり前なことだったと思い出す。


「ふっ」

我慢出来ずに思わず声が出た。


前に進むということに特化したは、余裕が二十代前半から夢中になったものだった。

時間が過ぎるのも忘れ、どんなに仕事で疲れても毎日欠かさなかった。

それはまさに、余裕が夢の中にいた日々だった。


「あれ?」

余裕がとある物に気づく。

「これって――」


               *


「お疲れ様でした」

誰かに言うわけでもなく、無差別に余裕が声を出した。


「おつかれ」「明日もよろしく」「どうも」「……」

様々な受け答えも特に気にすることなく、自分の進む方向だけに顔を向けて余裕は足早に歩いていく。


『♪』

余裕のツナギの右ポケットの中で携帯が音色をたてた。

前日に入れた、予定を知らすためのタイマー音。

その曲は、余裕が二十歳の時に好きだった映画の主題歌だった。

「なつかしいね、それ」

すれ違いざまに、同年代のよく知らない作業員が余裕に言った。

「でしょ」

そう言って余裕は携帯をブラブラさせて見せた。


明らかに余裕は舞い上がっていた。


だからといって、そのことに気づけていない訳でもなかったが、でも、それでも良いと余裕は自分にGOを出していた。


軽トラのドアを開け運転席に乗り込む。

ほのかに、確かな記憶のある匂いがした。


キーを回しエンジンに火を入れる。

ギアを2速に入れ、ゆっくりとクラッチを繋いでいく、同時に、段階的にアクセルを踏む。

エンジンの回転が上がり、フライホイールからクラッチ盤へと動力が伝わっていく。

スイーっと車体が動きだす。

何万回としてきたその一連の動作を、余裕はいちいち新鮮に感じていた。


公道へ出ると、ドライビングスタイルは加速体勢へと切り替わる。

3速、4速、オーバートップ。

軽トラの美点の一つでもある『軽さ』が、軽快に、弾むように加速運動を起こす。


流れる景色に、余裕は記憶をダブらせる。


「どうやって行ったっけか」

十年近い、以前の記憶を呼び起こしながら余裕は目的地に向かっていた。


交差点の赤信号、道を間違えもと来た道を戻る、トロトロと走る前方車。

どれも最近の余裕には、ストレスの対象で、時間の無駄でしかなかったもの。

けれど、この日の余裕にはそれら全てが最早美しいとさえ思えた。


上空では、満天の青空に、ひこうき雲が一筋できていた。

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