第18話 色。

「おーい、すーちん。持ってきたよー!」


時刻は午前5時過ぎ。

東雲の空が今日を告げている。

黒は灰色になり、灰色は橙に照らされ、途切れ途切れに透明になっていく。


「よゆう色だ!」

静の声がスズメのさえずりに混ざる。


橙色の間、透明の奥には青空が見えていた。


遠明寺家は街から外れた高台の上にあった。

前の通りからは遮蔽物がなく、見たいままに眼前が広がる。

「綺麗」

静はその景色も好きだった。

両手には外に持ち出すには不向きな大きさのキャンバスが握られていた。


「すーちーん! えーもってきたよー!」

まるで小学生が友達をラジオ体操に誘うような言い方で、届くはずもないその呼び声を続ける。


「すーちーん、ラジオたいそういこー」

そう言って静は大声で笑う。

次第にスズメたちのさえずりは、蝉たちにその場を奪われ、自分の世界を譲る。

蝉は、当然だと、今この世界に優先されるべき生き物は自分たちだと、一斉に大声を世界に響き渡らせる。


「えー! もってきたよーーーー!」

蝉の声をその声が抜く。

追い抜かれた蝉たちは、その合唱をやめる。


「あれ? 静ちゃん? どうしたのこんなに朝早く」

「しーちゃん、これ!」

「ああ、また枢に頼まれたのね」

椎は、自分の家の前で早朝から大声で叫ぶ妹の友達に、自分の描いてきた絵を見せられるという状況を何度も経験していた。


「へえ、月の絵」

「そう。初めて完成できたの! どうかな?」

「うーん…」

「…」

静が相手の言動を黙って待つというのはとても稀で、珍しいことだった。

それは、椎が、唯一といっても過言ではないほど、毎回決まって静の絵を追従ついしょうすることなく、外連味のない言葉で言い表すからだった。


「満月…か…。異常に明るい色ね、なんて色?」

静が胸の前まで持ち上げた月の絵に、椎は中腰に構え、しっかりと目線合わせると、顔を近づけたり、遠ざけたりする。


「よゆう色」

絵の裏から静の声が少しこもって聞こえる。


「よゆう色…? わたしの知らない名前の色ね。それに、すごく不思議な色。自然的だけど、なんというか、生命力の無い色」

「さっすが、やっぱりしーちゃんは鋭いね」

椎の感想に、静が絵を下げると、顔がにゅっと飛び出した。


「月は人工物だから、どうやって表現しようか、まずそこに躓いたの。何枚もスケッチしたりデッサンしても毎回同じ感じになって。だから、今度は彩色していったの」

「ふんふん」

いつもの、真剣な二人の空間が生まれる。


「そうしたら、急に先に進んで! でもそっからがこれまた」

「二回目はキツいわねぇ」

「そうなの。そしたらこの前この色を見つけて!」

静は、絵の中心を人指し指の腹でトントンと優しく叩く。


「見つけたって、植物の色か何かなの?」

何の気なしに椎は、静の言う、その色が何の色なのかを聞いた。


「このまえ病院に行ったときにこの色の服を着ていた人がいたの。よゆう色って名前もその人が教えてくて!」

「そうなんだ、確かにあまり見ない色だもんね、その、よゆう色…?」と椎は、自分の言った言葉に引っかかりを覚える。


よゆう色。


偶然にもその名前が、ついさっきまで一緒にいた人物と同じだと気づく。

「余裕…色」

椎は、静には聞こえないような声で呟く。


トゥルルル。

「うわっ!」っと、静が必要以上に体を跳ねさせた。

突然の電子音によって二人の世界は崩壊する。


「すーちんだ」

静は、彩色する際に必ず着ているツナギの胸ポケットから携帯を取り出し、枢からの電話に応答する。

「おはよう! 絵持ってきたよ! 会心の傑作だよ!!」

とても電話越しに会話をする時の大きさではない声で静が枢言った。


「アホシズ! あんたは毎回毎回。今日中で良いって言ったでしょうが! ラジオ体操誘いに来た小学生か! ああ?」

枢の怒号は、静はもちろん、椎の耳にまで、その一言一句が聞き取れた。


「枢、朝は弱いからね。それに確か夜勤だったんじゃないかな。もしかしたら、今から寝るところだったのかも」

「だとしたら、やばいじゃん」

静は、耳から携帯を少しだけ遠ざける。


「ん? そこに誰かいるのか?」

「ああ、うん。しーちゃんがちょうど帰ってきて」

「え? 姉貴そこにいるの? ちょっと代わって」

「はい、すーちんが代わってって」

「わたしに?」

椎が静から電話を受け取ろうとする。

「このばか姉貴ィ、朝帰りとは良い身分だなぁ、ええ?」

我慢ならんとばかりに、静と椎のちょうど真ん中で再度、怒号が響き渡った。

自分が急かされたと勘違いしたのか、太陽はこの時間の気温とは思えないほどの熱を放っていた。

椎は、くるぶしに届きそうな丈のワンピースの乱れを直し、静から電話を受け取る。


「おはよう」

「…おはよう」

全く意味合いの違う挨拶が姉妹間で交わされる。


「静ちゃん待ってるよ」

「ごめんなさいは?」

「え?」

「ごめんなさいは?」

「なにをそんなに怒ってるの?」

「携帯…」

「携帯?」

「着歴」

「を、見ろってこと? ちょっと待って……」

椎が焦ってハンドバックから携帯を取り出し、電源を入れようとする。

「あっ」

「なに? どうかしたの?」

二人の会話のような駆け引きを目の当たりにして、静はすっかり黙り込んでしまっている。


「電池切れてる」

「ふーーーー。とりあえず中入ってよ、シズも一緒に」

枢はそう言って、フっと電話を切った。


「静ちゃん、ありがとう。一緒に中入ろっか」

静に携帯を手渡すと同時に、椎は門扉を引いて、「どうぞ」と促した。


「えーっと、私今日は帰るよ。これ、渡しておいてもらえる?」

静が出来立ての月の絵を椎に手渡す。


「直接渡さなくてもいいの?」

椎は困った表情で静の顔を見る。


「うん、大丈夫。あのね、なんていうか、この絵は、誰にでも通用するっていうか、言ってみれば、どんな心境でも、どんな環境でも、どんなタイミングでも、等しく同じ思いになれる絵なの。だから…」

椎は、初めて見る、下を向きながらモジモジと喋る静の仕草が愛おしく見えた。

それと同時に、この子だから、こんな絵を描くことが出来るんだろうなと思った。


「うん…本当、ありがとね、静ちゃん」

椎は笑顔を作ることが精一杯だった。


「じゃ!」

そう言って静は、体全身に朝日を浴びながら、そうすることが当たり前のように、大きく手を振って全速力で駆けていく。

と、思ったら、その倍のスピードで椎の目の前まで舞い戻ってきた。


「なんたって傑作だから! 丁寧に扱ってね! よろしく!」

ポンポンと、椎に手渡したキャンバスを軽快に叩くと、まったく同じ動作で走りだした。


「ふふ、あんな太陽みたいな子が月の絵を書くなんて、やっぱりなんか変」


「またねー」と走り去っていく静を眺めながら、椎の表情は弛緩し、「またねー」と叫んでいた。

その表情は、ラジオ体操終わりの小学生のように、乾ききった透明色の笑顔だった。

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