第17話 触覚。

その顔は、堂々としていた。


余裕は、遠明寺椎の顔を初めてしっかり見た。

自分の中の椎の顔が、全くの間違いだったことに気づく。


思っていたよりも長い脚。

細すぎず、引き締まったウエスト。

そのウエストが強調される要因の胸のサイズ(想定していたよりもデカい)。

機嫌の悪そうな言葉使いとギャップのある華奢な肩。

それが正解かもしれない顔の輪郭。

キュッと閉じられた品のある口元。

申し訳なさそうにそこにある小さすぎる鼻。

感情表現の乏しそうな目に、長い睫毛。

人工的なものだと思っていた髪色はキラキラして生まれつきだと分かる。

耳にはこのまえと同じ小さなピアス。


目の前の女性こそが、本物の遠明寺椎だと余裕は思った。


「今日はツナギじゃないんですね」

開くことがないと思われた口元が滑らかに動く。


「…ああ。今日休みだったから」

余裕は、自分の声が明らかに緊張しているのに気づく。


「ふーん、普段はそんな感じなんですね」

現場で会うときの口調で椎が言う。


「現場の連中がいちいち他人の格好なんて気にしないだろう」

「なんて言っていいか分からないけど…その…ダサいですね」

「そういうあんたも化粧してないじゃないか、俺と変わらないだろう」

「そういうこと女の子に軽率に言っちゃ駄目ですよ」

「女の子って、あんた何歳だよ」

「…確かに」

そう言うと椎は、「そういうとこですよ」と、あははと、整った顔を一杯に歪ませ笑った。

余裕は、椎の目元にぎこちなさそうに皺が寄っているのを確認すると、つられて笑ってしまった。


「で、私は送ってもらえるんでしょうか?」

同じ内容なのに、その言い方は完全に崩されていた。


「どうぞ、終電も間に合いそうにないし」

余分にそう言い、余裕は運転席に先に乗り込んだ。


「ありがとうございます。」と言って、椎は助手席のドアノブを引く。

その手が微かに震えていることに、余裕は気づくはずもなかった。


繁華街を走る軽トラック。

車内には、三十代の、中年に片足突っ込んだ男と、とても軽トラに乗るような格好ではない美女。

赤信号で止まるたびに、横に並んだ車中のカップルや、家族が不思議そうに余裕たちのことを見てきた。


余裕は、普段の運転に輪をかけて丁寧に運転していた。


「…」「…」

駐車場を出てからの二人は我に返ったのか、車内は沈黙で溢れかえっている。

余裕が丁寧な運転をしようとしたのも、このことが一つの要因になっていたかもしれない。


「上手ですね、運転」

永遠かと思われた沈黙を突然、椎が破った。

余裕は一瞬なにを言われたのか聞き取れなかった。


「私が乗ってるからですか?」

椎のその言葉で、余裕はさっきなにを言われてのかを思い出す。


「運転は趣味みたいなもんだから」

余裕がそういうと、ずうっと進行方向だけを見ていた椎が、余裕の方へと勢いよく顔の向きを変えた。

その顔は、目を丸くして、驚いていた。


「なに?」

「ふふ、なんですか、それ。それをいうなら趣味はドライブとかでしょ」

「そっ、そう? まあ、そうか」

弛緩しきった椎の笑顔を、余裕は直視出来なかった。


「でも、そうなんだよ。運転は趣味なんだ」

キョトンとした椎の顔がすぐ近くにある。

その顔も、余裕は直視出来ていなかった。


「どういうこと?」

「若い時にちょっとね…」

「ふーん。もしかして暴走族とかだったんですか?」

「ぶっ! あははははっ!」

椎の言葉に不意をつかれてこんどは余裕が大笑いする。

街頭の灯りに椎の顔が橙色に照らされて、余計に赤くなった顔が強調された。


「うん、まあ、そんな感じ」

「なにがそんなにおかしいんですか、私なにも変なこと言ってませんから」

「…くっ…く」

余裕はもう、笑いをこらえることに必死にだった。

そのすぐ横で、腕組みをし、頬を膨らませた、怒り顔の椎が不機嫌になったと言わんばかりに余裕をにらみつける。

余裕は、またも同じく、その顔を直視出来ていなかった。


「わたし、助手席に乗ったの久しぶりなんです」

「へえ」

「そうなんです、こうして他人の運転する車に乗るのが」

「そうなんだな、まあ、お嬢様が自分で運転するってのもな」

「そうなんです…」

「そうだよ…?」 

さっきまでの雰囲気が何気にそう余裕に言わせていた。

椎がこの時なにを思っていたのか、どんな思いで余裕にそう告げたのか。

嘘のように消えてしまった椎の笑顔に、余裕は気づいていない振りをしてしまった。


「あ!」

「なに!? どした?」

椎の突然な、今日一番の大声に、不意に余裕は急ブレーキを踏んでしまう。


「あそこ行きませんか?」

「どこ!?」

「あなたが倒れて、私が助けたところです」

「あー、あの海ね」

「ここからそんなに時間かかりませんよね?」

「まあ、10分かからないと思うけど」

「なら行きましょう!」


余裕は、軽トラを再発車させると、一つ目の十字路を帰路とは逆方向にハンドルを切った。

時刻はすでに日をまたいでいた。


「うーん。昼間と違って静だな」

「海風気持ち良いですね」

二人は夜の海を見たのは久しぶりだった。

この時間のこの海は、昼間の暴れることに全てのエネルギー使い果たし、電池の切れた子供のように眠っているようだった。


「どうして俺のことを会社に言わずに君がひとりで病院まで連れていってくれたの? それも、この現場の緊急指定病院じゃなくて、妹さんの務めてる病院までわざわざ連れていってまでして」

「その言い方…。なにか、いつかわたしに聞こうと用意していた文言みたいですね」

「してたよ。ずっと気になってたし。それに、妹さんに言われたんだよね」

「枢に?」

「そう、枢先生に」

「枢はあなたになんて言ったんですか?」

「焦ってた、って」

「?」

椎はとくに表情を変えることなく、微かに眉をひそめただけだった。


「初めて見たって言ってたよ。君が焦ってるところ。そこからは君と俺が恋人だと決めつけて食ってかかってこられたから、困ったよ」

苦笑して余裕は言う。


「わたしも、次の日家で枢に色々聞かれました。姉貴あの男とどういう関係なの? 本当に付き合ってないの? 終いには…」

「終いには?」

「その、」

椎が言葉に詰まる。


「歳離れてるって?」

「それも確かに言いました。」

それじゃなかったことに余裕は、疑問と少々の怒りの混じった表情になる。


「どうして好きになったの?って…」

椎はおもいっきり握りこぶしを両手に作っていた。

余裕は、横目にそれを確認する。

この感覚はどれくらいぶりだろうかと、それと同時に、今の自分がそんなことを感じ、思ってもいいのかとも考える。


『僥倖』

余裕はそれがマイナスだと知っている。


自然と余裕は、椎の握りこぶしに手を当てる。

思っていた以上に力の入っていた椎の両手を指を絡ませゆっくりほどく。


「好きです」

椎は手だけでは済まなくなっていた肩を余裕の肩に当て返す。

その振動は余裕に伝わった瞬間に止まった。


闇夜の海を眺めながら余裕は、

「知らなかったことは教えてもらえるんだな」と海に言った。

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