第16話 内包
絵筆を手に取る。
静の最も好きな瞬間。
眼前には、この間病院で見た『満月』が、Pサイズ30号のキャンバスに、病院で描いたときのスケッチからよりさらに鮮明に描かれて、木製のイーゼルに置かれている。
彩色は、静の最も苦手で、実際下手くそな作業だった。
けれども、工程のなかで一番楽しく、最も好きだった。
静は、意気込んで色の調合を始める。
シアンにごく少量のイエローを混ぜる。
色作りは、無限のものから望んだ一つの色を導き出す、気の遠くなるような作業だ。
シアン、イエロー、マゼンダ。
その三色が、三原色と言われることが多いが、それらの色でさえ、『色』という無限の中から生まれた一つでしかない。
一切の躊躇も無く、静は色を混ぜていく。
的確に、精密に、狂いなく混ぜていく。
イメージどおりの色を作り出すという技術において静は、天才的、ではなく天才そのものだった。
『よゆう色』
初めて聞いた色名。
あの時、あの場所で見た運命の色。
うるさいほどの月光を体全体に浴びることによって浮き上がり、ナースステーションの人工光によって影が入ったその色を忠実に再現していく。
思い通り、そんなチンケなものではない。全てが緻密に計算された結果によって『よゆう色』がこの世に産声をあげようとする。
その既のところで静は、マゼンダである赤を砂粒ほど混ぜる。
『赤』は、静がどの色を調合する時にも必ず混ぜる色だった。
静は集中し、夢中になって絵を描いていく。
先に述べた通り、『絵を描く』というものの概念が静には違っている。
それは、無口という現象にも現れる。
無口とは静にとって、イコール集中、夢中ということになる。
もちろん、人間は、何かに集中したり、夢中になれば、無口になってしまうのはごく自然なことだ。
しかし、それは、本当の意味でそうは出来ていない。
例えば、集中しているところに突然、ナイフで体を傷つけられたりすれば、その痛みによって、途端に集中、夢中は解かれてしまう。
解かれてしまうとは言ったが、それは当然なことだ。
もし、ナイフで刺されなんかした日には、出血し、そのことが命の危機に直結するからだ。
しかし、静の集中、夢中は、愚かにもそれを忠実にこの世界に再現してしまう。
子供のころ、客に混ざって夕飯を食べながら、普段通りに絵を描いていた時、酒に酔った客が、夢中で絵を描いていた静の横で、自分の足に自らつまずき、転んだ拍子に持っていたジョッキをその勢いのまま、静の頭に振り下ろしてしまったことがあった。
ジョッキは割れ、中に入っていたビールは静の頭の上に全てかかってしまった。
当然、頭からは大量の血液が流れ出した。
顔面蒼白になったその客は、自分の着ていた服で急いで静の頭を拭き、必死で出血を止めようとした。
「静っ!」と両親はとっさに手を止め静に駆け寄った。
店内にいた客達も、その状況に、全員が静の安否を心配し、持っていたタオルや、店のおしぼりで一生懸命出血を止めようとした。
「静、大丈夫」「すぐに救急車を呼べ!」「おまえ、とんでもないことしてくれたな!」
両親の心配する声。
客達の焦りの声や、酔って静に怪我を負わせた男への怒号が店中に響いた。
しかし、それらの声は、一切、静の耳にとどいていなかった。
静は、頭から滴り落ちる、自分の血がビールに混じることによって、偶然生まれたその色を見ながら満面の笑みで、
「すごい! こんな色初めて出せた。おじちゃん、ありがとう」
と、自分に怪我を負わせた張本人にお礼をいうと、その表情のまま目を閉じ、意識を失っていった。
「出来た」
静が冷静にしずかに言った。
完璧な『よゆう色』が、木製のパレットの上に、その一色だけで乗っていた。
ゆっくり筆の先を、完成出来たばかりのその色に下ろす。
ぺちゃっと、油彩絵具にしては水分の多い音を立てる。
この色を塗り終えることができれば、満月の絵は完成する。
完成とは、同時に納得した絵を描くこと。
ゆっくり、時には素早く、適材適所の動きで静は筆を動かす。変わらず迷いは微塵も
ない。
水気の多く含んだ顔料は当然だといわんばかりに、ストレスフリーでキャンバスに馴染んでいく。
よく絵を描くに当たって、「魂を吹き込む」なんてことをいったりする。
静には、それが理解できなかった。
それどころか、真逆の思想をもっていた。
対象の命を奪う。
そもそも絵というものは、人工物で無機質なもの。
だからといって、そこに魂を吹き込むなんて、自ら進んで殺したものに、今度は自らの命をくれてやるということ。
ありえない。
静は、絵を描くことは命あるもの、もしくは、生命力溢れるものの息の根を止め、全てを奪い、その責任を自身が一心に引受ることだと、絶対的に解釈している。
インスピレーション、アイデア、センス。
それら水物の感覚をすべて排除し、確実で、完璧な、実力のみを行使する。
自分も殺す。
先日の海での卒倒は、静が以前から取り掛かっていた、習熟に失敗したからだった。
ビール瓶で頭を殴られ流血したあの時、外の世界からの影響は僥倖だと、静は学んだ。
己の力だけではどうにも出来ないことがあると理解した。
現実と空想の間の世界。
学び、理解したにはしたが、それを自分の引き出し、つまりは実力にすることに静は四苦八苦していた。
春先の陽気のなかで微睡みながらのスケッチ
真夏のぴーかん照りな真っ昼間に海での描画。
晩秋の連日連夜の完徹の末の霞がかった頭に浮かんだイメージの描出。
真冬の地吹雪舞う日の屋外でのデッサン。
より集中したいと、寺に画材道具一式を抱え、座禅しながら絵を描きたいと、住職に懇願したこともあった。
しかし、そのどれも失敗に終わった。(寺の時は、絵を描くことすら叶わなかった。当然だが…)
『運命』は生き物だと見出したのはついこの間だった。
経験が導き出した結果だった。
そして、それは、望んでも得られるものではなく、むこうからこちらに来てもらうものだということも。
枢の務めている病院での邂逅。
「よゆう」色だと、作業着姿の男が教えてくれた
運命が出会ったくれた。
「完成」
静が筆を置く。
自分がいま満足できているのか自問自答するため一瞬の間が空く。
「うん!」
普段通りの独り言を静は叫んだ。
納得できた。
確かな手応えも感じていた。
意識が遠のく、それはいつものものではなかった。
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