第15話 流動。

流動というものが新木余裕の人生には起こってこなかった。


それは、意識的、時には無意識的に。

逃げたり、気づかなかったり。

自分中心に物事を考えたり、他人を放任させたり。

その全てがデフォルトだったからというだけのことだ。


という実感。

他人に影響されるなんてことが、自分の身に起きようなんて考えたこともなかった。

という実感。

置いて行かれまいと、奮闘するなどあってはならないことだった。


余裕は、この数日間で出会った人とのやり取りを、すべて記憶してしまっていた。

相手の容姿、声、どんな内容を話したのか、そのすべてのことが痛痒つうようとなって、余裕を煩わせていた。


「それでは、上田島護岸工事の無事故、を祝しまして、カンパーイ!」


余裕から一番遠いところで威勢の良い声がした。

その声に全員が一斉にグラスを掲げ、「乾杯」と仲が良さそうにグラスを合わせる。


「オツカレ新木さん!」

隣に座った、二、三度話したことのある同世代の男が、その行為をしようと余裕に声掛けする。


「どうも」

不向きな行為をさせようとしてくる目の前の弛緩しかんしきった表情の男に不快感を感じながらも、余裕はグラスを合わせた。


30人以上の工事関係者が、ぎりぎりなキャパの宴会場に参加したため、個人のスペースなどなかった。


他人に挟まれるのを嫌った余裕は、一番隅の壁側の席を選んでいた。

目の前には、そう配置させることがこの居酒屋の決まりらしい、一定のパターンで料理が並べられている。

余裕の座った場所がテーブルの端だったからだろう。視界には、いまにも落ちそうな枝豆のからを入れるためのザルと、個々に配られる小鉢だけが見て取れた。

「まずっ。すっぱ。なんだこれ?」

普段好んで食べないようなものを口にした余裕は、思わず、味の感想を声に出してしまう。


隣では、さっきの男と、余裕の知らない何人かが肩を組んで記念の写真を撮っている。

「ええっと…、たしか、新木土建の…」

その中のひとりが余裕に声を掛けてきた。

「新木、余裕です」

どこの誰か知らなかったが、余裕は一応会釈する。


「あんたのとこ、家族経営だったよね」

見た目、余裕よりもかなり年上の男が、顎で余裕ことを指し言った。

「いいねえ、家族経営は気楽で。社員のいるうちは人件費だけでもヒイヒイなのに」

すぐ横で、これも知らない男が、生ビールの入った瓶片手に続く。

「そんなこと言ってやるなよ、新木さんのとこは新木さんとこで色々あるんだから」

メガネをかけた少しだけ品のある男が更に続く。


「はあ…」

うちのなにを知ってるんだ。と余裕は付き合いきれないと、早く自分達だけの世界に戻っていってくれと空返事をする。


「なんだ? 寂しそうに独りで飲んでるから声掛けてやったのに、に話し掛けられるのがそんなに気に食わんか」

「他人…」

最初に話しかけてきた男の何気に言ったその言葉に反応して、余裕は反芻した。


「だって、そうだろうが。いくら一緒にあの現場で仕事してきたからって、こんなお開きの場で初めて喋ったんだから他人だろうが」

「…そうですね」

余裕は、今自分の顔がどんなふうになっているのか分からなくなっていた。


「なんだそりゃ。ったく、そんなふうに思ってるなら最初っから来るなよ」

そう言って男はまた、写真を撮っていた数人と、ガヤガヤと楽しげに、余裕との会話など無かったかのように騒ぎ始めた。


普段ならば、事が済んだとしか思わなかった。

そもそも余裕は、他人の言葉を気にして生きていない。

自ら他人に干渉するなんてナンセンスだとさえ思っている。


けれどこの日、余裕は、その枠から出てしまっていた。

感情が理性を押しのける。その運動が熱を生じさせ体温の上昇として表面化する。

『怒り』

久しく忘れていたその感情を、余裕は思い出した。


「遠明寺さんとこの娘さん来てるらしいっすよ!」

最初に隣に座った男が、他の連中に教えるために大きめの声で言った。


「どこだ?」「初めてじゃないか?」「どれ? どれ?」全員が一斉にそのことに集中し始める。

「ほら、あそこ」

メガネの男が指を刺した。


不意をつかれた形で、余裕は思わずその行方を追ってしまう。

あの件以降、遠明寺椎と会うことはなかった。

連絡先を知ろうとすれば、いくらでも方法はあった。

けれど、そこは余裕という人間の本領発揮。

自分からどうにかしようという気など生まれるはずもなかった。


遠明寺椎を囲みこむように人だかりができていた。

連中もその中へと混ざっていく。

「いやーべっぴんさんだねぇ」「カワイイっすね」「今日はどうしてここに?」

各々が思ったことを、躊躇なく、考え無しに言う。

余裕はその会話に聞き耳を立ててしまっていた。


「あの現場が無事完成出来たのは皆さんのおかげです。なのに、工事中私は頻繁に現場へ出ていくことが出来ていませんでした。なので、どんな人達が携わったのか、今日は、その人達ひとりひとりの顔を見にきました」


まわりで今の今まで騒いでいた連中が一瞬静まる。

次の瞬間、店が揺れたような歓声が起こった。


「うれしいねぇ、頑張った甲斐があるよ」「遠明寺さんのとこにはいつも世話になりっぱなしなのに、そんなことまでしてもらえて、申し訳ないよ」「今度は一緒になってもっと良いものを作りましょうね」

椎は、感謝、追従、明らかな好意、それらを一身に受ける。


他人同士が一個になっていた。

「ちがうな、ひとつに…か」

余裕から『怒り』が消えてなくなっていた。

「遠明寺、椎、ね」

余裕は、久しぶりに、自分の中に新たな名前を刻んでいた。


この場に来ている一人一人の顔を覚えるため、椎は、所属会社、名前、中には自分の住所や携帯番号までも言ってしまっている連中の方へと、いちいち顔を向け、笑顔で首肯している。


唯一人、大きな輪に入ることをしなかった余裕は、人混みの間で、たまに確認することができる椎の笑顔を、少しでも長く見ていたいと願ってしまっていた。


その日初めて、余裕は、お開きという時間まで残ることした。

終始、ひとりで、枝豆や、不味い料理をちびちびと口に運びながら、適当に飲みのを頼んで、それらを一気に胃に流すという作業を繰り返した。

どうしてこんなことをしたのかと、最近の痛痒とは別のものに煩わされた。

店から出る際、例の男に「なんで最後まで残ってるんだあんた」と怪訝な顔に怒りの混ざった表情で嫌味を言われたが、さっきのような感覚や感情は一切起こって来なかった。

「お疲れ様でした」と一言ぼそっと余裕が言うと、「なんだよそりゃ、ここは現場じゃないんだぞ」と再度同じような感じで呆れたように言い捨てられた。


余裕は、車の停めた駐車場へとゆっくり歩き出す。

酒を飲むことが出来ない余裕は、もう二度と今日みたいなところへは出ないと勝手に決心していた。

「はーあ」

『新木土建(自家用)』と書かれた軽トラックのところまで来ると自然と溜息が漏れた。


「乗せっていってもらえますか?」

余裕が、運転席のドアノブに手を掛けた瞬間、後ろで声がした。


振り向くまでもない、その声の主は、間違いなく遠明寺椎のものだった。

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