第13話 回転。
遠明寺建設。
余裕の土建会社が下請けとして何十年も世話になっている、いわゆるゼネコンと呼ばれる全国的にも、ではなく、最近では、海外にも進出し始めた、業界では、この数年で加速的に飛躍した大手の建築会社。
余裕自身、数回しか遠明寺建設の現場では仕事をしたことがなく、知るところでは、父親が、遠明寺建設の社長と個人的な繋がりがあるらしいというくらいしか把握していなかった。
「ええっと…どこから説明していけば…」
余裕は、本当は自分が、おそらく午後からの作業に取り掛かろうとして倒れたというとこからの記憶が当然ないのだから説明してほしいのはこっちなのにと思いつつも、目の前の何やら色々と据わってしまっている女の気迫にただ圧倒されていた。
「関係ないです。まったく」
一気に答えを言ってしまったことで、困惑、病み上がり、恐怖、頭の中が真っ白という状態の割り振りを、余裕は始めて認識出来ていた。
「というか、どうして君はそう思ったの?」
「…」
「えっ?」
「…ってたから」
「なんだって?」
さっきまでの、はきはきとした枢の口調からうって変わって、こもった声質と、音量の小ささに、今度は余裕の声の音量が上がる。
「焦ってたんです」
枢の口調がタメ口から敬語に戻る。
「焦ってた…? なんで? 君のお姉さんがなんで焦る必要があるんだよ」
確かに、人が倒れている現場を目撃すれば誰だって焦るだろう。だからといって、この子の反応は些か極端過ぎる。余裕は自分の置かれている状況がさらに分からなくなっていく。
当然というべきか、余裕の声も元の状態にもどってしまう。
「どうやら本当みたいですね。あなたと姉貴が親しくないというのは」
まるで独り言のように枢が言った。
「姉貴は、冷静沈着を絵に書いたようなひとなんです。ううん、それどころか、『冷血潜入』…みたいな、まあ、あたしの造語ですけど。それくらいなひとなんです。だから、あんな姉貴を見たのは初めてだったんです」
枢は自分の言おうとしていることが、言いたくないことなのに、ここで目の前のこの男には今言わなければ後悔してしまうという、矛盾の状況に当惑する。
ふと、静ならば、あのシズなら、この男を目の前にしてなんて言ってやるんだろうと、考えてしまった。
「あの…、枢先生、取り込み中申し訳ありません。アラキさんの荷物、椎さんから渡されていたのを忘れてしまっていて…」
ナースステーションで余裕が会った、メガネをかけた看護師が少し小さめのリュックを持って診察室へ入ってきた。
「そこに置いといてもらえますか」
枢は、複雑な感情を何個も絡ませてしまったような、なんとも言えない声で言い捨てる。
「わかりました。すみません、失礼しました」
そう言って、メガネの看護師は、そそくさと診察室から出ていった。と思ったら、くるっと体を捻り、どう見ても苦しそうな体勢のまま、「もうひとつ言付けを忘れてました。「中身の確認して下さい」と伝えて下さいとのことでした」と、明らかな焦りからくる文体で言って今度こそ診察室を出ていった。
「わかりました。ありがとうございます!」
余裕はふたつの意味で感謝を述べ、急いで自分のリュックを漁る。
「ええっと…、図面、電卓、財布、あとは…」
必要以上に大きな声で、何かを紛らわせようとしているのが丸分かりな、わざとらしい仕草で中身を確認していく。
中身の確認をしている最中、枢の顔をちらりと上目遣いで見ると、両目頭を指で強く抑え、同時に目を強く瞑んでいた。
そのマズイ表情を確認してしまった余裕は、さらに焦り、もう貴重品がどうこう言ってられなくなっていた。
あまりに焦った余裕は、「カコン」っとリュックの中にあった物を、自分よりも枢のほうが近いところへ落としてしまう。
「落ちましたよ」
仕方無さそうに、枢が余裕の落とした物を拾う。
「これって…絵馬?」
それを知っているものならば、誰しもがその名前を言うのは当然だった。が、枢が疑問に思ってしまったのは、その絵馬が、絵馬だと言ってしまってもいいものなのかという印象を持ってしまったからだった。
「あ、それ」
なぜかマズイと思った余裕は、急いで枢の手から絵だけの絵馬を奪ってしまう。
「どうして、絵だけなんですか? それ」
当然の質問だなと、余裕は思う。
「これは、ええっと、その」
余裕のはっきりしない物言いに、枢が怪訝な表情をする。
「それって、
あまりの正確な質問に余裕はさらに混乱する。
「もしかして、獲ってきたんですか?」
すでに、枢のなかで余裕の存在は、犯罪者と同等に扱われていた。
「自分で描いたんだよ、これは」
それは、挙動不審な声だった。
「…そうですか…意外ですね。あなたみたいな人が絵を書くなんて」
「別にいいだろ、俺がなにしようと」
「それはそうですけれど…、でも」
枢がそこから言おうとしていることが、余裕には手に取るように分かってしまう。
「いくらその絵馬が絵だけな妙な絵馬だとしても、普通その場で書きますよね?」
「…」
余裕のこめかみに、昼間の仕事で流す純粋な水分とは間逆な、重油のような不順物だらけな透明な水分が伝っていく。
「見てほしかったからだよ」
余裕はこの絵馬を見つけたときに思ったことを自分に置き換えて話すことにした。
「見てほしい? どういうことですか?」
枢は、綺麗な真っ黒な目で聞く。
「自分で描いた絵をほかの関係のないひとに見てほしかったんだよ。でも俺みたいな素人が趣味程度で描いた絵なんて恥ずかしくてどこにも出したくないし。でも絵馬なら無記名だし、それに、いろんな人の目にも留まる可能性があるだろう? こんな良い手はないってあの神社に飾ってこようとしたんだ」
目を見て、それも、今回みたいな目を見ながら嘘をつけるほど、余裕には度胸がなかった。
「ということはそれは絵馬ではないと」
「そういうこと」
余裕は、全て言いきったと安堵する。
「ふーん、そう。でも、あの辺りならもっといい風景あると思うんだけど。それって、地竜川ですよね?」
その発言に余裕は俯きながら喋っていた顔を思わず上げてしまう。
「なっ、なんですか? あたし、なにか変なこと言った?」
「いや、別に…。でも、なんでこの絵だけで場所まで分かったんだよ?」
「だって、奥の橋。それってシラサギ橋でしょ? 欄干の形ですぐ分かったわよ」
自信ありげに枢が答えた。
「でも、その絵…。それって、本当にあなたが書いたの?」
その言葉に余裕の全身の穴という穴が一気に開いた。
「はあ!? 当たり前だろう。もういいだろう? 俺は大丈夫だから、体調も良くなったし」
余裕は絵馬をリュックの中へ、今度は落とすことのないように他の物をかき分け一番下にねじ込んだ。
「それじゃあ、どうもお世話になりました!」
余裕はまるで捨て台詞のように言うと、全力で診察室から出ていった。
「ちょっと、まだ話は済んでない!」
枢の声掛けは、自分しかいなくなった部屋に反響しただけだった。
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