第12話 よゆう色。
静は全力で院内の廊下を走った。
いい気持ちだった。
枢との待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。
しかし、それが自分のミスによるものということを本人は一切気にしていない。
真っ暗な廊下だったが、窓際を走っていれば、月明かりの
枢の勤務する外科のある病棟までの閉ざされてた空間は
「きれいな色だったなぁ、『よゆう色』かぁ、今度イデムに行ったとき探してみよ」
無邪気に、そして呑気に、静は決意を固め、自分に言い聞かせた。。
もう少しで枢のいる外科病棟だった。
静はさらにスピードを上げる。
それは、枢にまた、くどくどと叱られたくないということもあった。
またそれとは別に、原因不明の気分の高揚感が走り出す寸前からあった。
実際こうして走り出してしまってからは、枢に叱咤されることを、時間が立つにつれ増幅する高揚感が消し去ってしまっていた。
「ちょっとまって」
静は突然立ち止まった。
ここでいうところの「立ち止まった」というのには、静ならではな意味合いが込められている。
フィジカル的な停止。
メンタル面の停止。
それだけでなく、記憶、意識、etc。
諸々の停止を意味した。要はシャットダウンしてしまった。仮死状態といってもいい。
それは5分くらい続いた。
そしてまた突然、「なんでだろう…?」という疑問という再起動音と共に静に電源が入った。
「………」
静は沈黙というものをほとんどしたことがなかった。
絵を描く時のそれは、静にとって沈黙ではなく、集中もしくは夢中ということになっている。
だからこうして考えを巡らせ沈黙し、それに自分が当惑してしまっていることに、とてつもない違和感が沸き起こってきていた。
同時に、妙に体中がむず痒くなった。
カリボリと背中や腕、脚を掻いたりしてみたが、どこが痒いのかは結局特定出来なかった。
「運命………はあ!?」
静は、自分がどうしてそんなことを言ったのか意味が分からず、なぜか憤怒した。
静は常からその『運命』という言葉を大切にしている。
運命という名詞を、自分に形容しているくらいだった。
だからなのか、こうして、ぬるりと、つい口からその言葉が出てしまったことに怒ってしまったのかもしれない。
「どうして間違えたんだろう?」
普段通りの声で言う。
「なんで体中痒いんだろう?」
すでに無駄だと掻くのはやめていた。
「なんで――」
静は、途中で考えることをやめてしまった。
静は、『やめる』ということ、もしくは、それを連想させてしてしまうものが嫌いだった。
やめる。
抑える。
諦める。
一時停止に、「止まれ」という道路表記。
とまるくらいなら、下がるほうが全然ましだと思っているくらいだった。
ふと、顔が無意識に窓の外へ向いた。
やけに明るい。昼間のように、目に見えるもの一つ一つの輪郭が認識できてしまう景色が目に入ってくる。
静はその元凶が何なのか分かっていた。
ゆっくりと目線を上げていく、そこには当然だと言わんばかりに、月があった。
静はどこかで、月は人口物だという陰謀論めいたものを聞いたことがあった。
元々月が好きで、実家の自室から見える月の絵を何百枚も描いていたが、そのことを聞いてからはさらに月が好きになった。
新月、二日月、三日月、上弦の月、十三夜月、小望月、十五夜の月、満月。
十六夜、立待月、居待月、寝待月、下弦の月、晦。
周期的に変化する月というものを知れば知るほど人工的に見えいった。
たまに、曇ったり、雨がふるような天気で月が見えなくなってしまうのは、自然現象によって、月というものが人工物だということを忘れさせようとしているのではないのかと、腹を立てたこともあった。
静は、ありとあらゆる月を描いていた。
けれど、一度たりとも自分で納得するものが描けたことがなかった。
枢に何度か見せたことがあったが、「すごい」やら、「きれい」やら、「幻想的」などと言うだけで、どこがどうということは言わなかった。
次第に静は、スケッチするまでにしか月を描けなくなってしまっていた。
それは、諦めという、静の嫌いな『やめる』を意味していた。
「今日は満月だ」
静の知っている月のなかに今晩の満月はなかった。
静は突然、廊下の壁の掲示板に貼られていた献血を促す文句が書かれているどこぞのアイドルのポスターを引き剥がすと、くるりと素早く180度向きを変え、さっきのナースステーションへと、今回もまた全力疾走で戻った。
「はあ、はあ、はあ、すいません、なにか描くものありますか?」
すでに面会時間はとっくに過ぎていた。
そんな時間に、どう見たって関係者ではない、息を切らしながら意味不明なことを大声で聞いてくる小娘が訪ねてきたことに、メガネのベテラン看護師は一瞬呆気にとられたが、静の掴んでいる紙らしきものが、昨日自分の貼ったポスターだと気づき、「それどうしたの!」とヒステリックな声を出しながら勢いよく詰め寄って来た。
「いいから、はあ、はあ、鉛筆かなにかないの?」
タメ口で、吐息まじりに聞いてくる自分よりも年下の女の問に、「もしかして、破ってきたの!」とさらに覇気をまして看護師が聞く。
「これでいいか!」
すでに静の中では、断ってなにか描くものを借りていこうという考えは消滅していた。
と同時に、目の前で、なにかぎゃんぎゃんと自分に向けてひなってくる看護師も無き者にしていた。
受付時に書類などを記入するために置かれていたボールペンを乱暴に掴むと、静は、「これで我慢します」と見当違いなことを言って、その場に胡座をかいてしゃがみ込んだ。
「ちょっと! あなた聞いてるの!」明らかに怒りをあらわにしているメガネの看護師に対して、
「うるさい! しずかにして!」
と、その声をかき消すほどの大声で静は叫んだ。
数分後、静はさっき見た月を描き終えた。
描いている最中ずっと、こんな小娘に負けまいとして、ここが病院だということなどお構いなしに金切り声をあげていた看護師も、静の絵を描き終えるころにはすっかり疲れ果てていた。
「綺麗ね」
静の後ろでメガネの看護師がメガネを外し、落ち着いた、看護師らしい声をかけた。
「でしょ」
静は、ポスターの裏に描き終えた満月の絵を頭上に掲げ、メガネの看護師に見えやすいようにした。
「そっか、今日満月だったのね」
「そう初めて見た!」
「え? 初めて?」
メガネの看護師はメガネを正しい位置に装着し直し、静に怪訝な顔を向ける。
「今までで一番てこと!」
「ああ、…なるほど?」
「でもまだ完成じゃないの」
「そうなの?」
二人はすっかり仲良しになっていた。
「彩色がまだだから」
「なるほど、そうね。これだけ綺麗な満月なら色がなくっちゃもったいないわね」
二人はすっかり意気投合していた。
「じゃっ!」
そう言うと静は、胡座をクラウチングスタートに見立てたスタートをきり、一瞬でメガネの看護師の目の前から居なくなった。
「ちょっと! ボールペン!」
メガネの看護師が備品を取り返そうと声を掛けた時にはすでに静の姿は遠くに見えていた。
「完成したら見せにくるねーー!」
そう言うとメガネの看護師から見えなくなっていった。
「なんなのよあの子は…。でも、まあいっか。いいもの見せてもらったし」
メガネの看護師は静に窓のあるところまで早足で歩いていくと、メガネを外し、
「久しぶりに見たな、満月」と呟いた。
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