第11話 混濁。

「院内ではお静かに願います。」

余裕は、奥で仕事をしているメガネをかけた50代位の女の看護師に怒られたしまった。


「すいませっん」

声が裏返りながらも謝罪し、軽く頭を下げる。

どうして俺が…と思いつつも、その顔には、つい笑みを浮かべしまっていた。


「あの」余裕はまずいと思って、力の入るようになった右手で内ももを軽くつねる。

「なんです?」

その不機嫌そうな声に、一瞬、まだ自分の顔がニヤけているのかと思い、さらに力を強める。

「痛っ」

「大丈夫ですか?」

余裕の出した声に反応して、女の看護師は急いで近寄り慇懃いんぎんな声をかける。


「大丈夫です。あの、今そこの診察室で眠ってしまっていて、自分がどうしてここにいるのかわからないんですけど…」

余裕は、自分の言っていることが自分でもよく分かっていなかったが、そう聞いてしまったことに後悔はなかった。


「ああ! 確か…、アラキ、ヨユウさんですね?」

メガネの看護師は急に明るい声を出し、両手を軽くポンと合わせる。


「はい。その、俺ってここまでどうやって来たんですか?」

「そのことでしたら、枢先生にお聞きになってください。今呼びますので」

女の看護師は慣れた動作で流れるように何処かへ電話しはじめた。


「あっ、先生、患者さんお目覚めになられました! はい、はい、わかりました。はい、伝えておきます。」

そう言って電話を切ると、「先程お目覚めになられた診察室でお待ち下さい。」と言って業務へもどっていった。


診察室へ戻ると、余裕は、ここが救急外来用の診察室だということを知った。

仔細しさいは理解出来ていないが、どうやらここまで救急車で運びこまれてしまったと思った余裕は、「マズいことになった」と呟いた。

それは、もしそうだとしたら、今の現場での自社の立場が危うくなるのではないのかと危惧したからだった。


作業現場では、事故などをおこすと、指名停止と銘打って、そこでの作業を強制的に止められてしまう。

それに、そのことが原因で、これから先の信用問題にもなりかねる場合が多々ある。

今回の場合、当然故意ではなく、事故を起こしたわけでもないため、その条件には当てはまることはないが、『救急車』というところに余裕は引っかかっていた。


「お待たせして申し訳ありません。って、大丈夫ですか?」

余裕は、自分でも意識していないうちに、前かがみで「うーん」と唸っていた。


「ご気分優れませんか? 横になられます?」

余裕はその声に気づけていなかった。


「あの…アラキさん…えっと、アラキヨユウさん…」

名前を呼ばれてもなお返事をしない。


「新木余裕さん!!」

「うおわっ!」

突然の聞いたことのないの声と声量に、余裕は思わず大声を出してしまう。

一瞬、さっきの子かと思い、普段の倍くらい驚いてしまっていた。


「おおっと、ごめんなさい。気づいていらっしゃらいようでしたので、つい」

振り向くと白衣を着た、見た目あの子と同じ歳くらいに見える育ちの良さそうな女が驚きと、申し訳なさとの入り交ざったなんとも言えない表情で余裕を見下ろしていた。


「わたし、新木さんの担当医の遠明寺枢です」

そう言うと、しっかりと体勢を整え直し、軽く頭を下げ、顔だけ上げると微笑んだ。

「すいません! 俺ちょっと考え事してて。えっと、その、新木です、新木余裕です」

余裕は咄嗟に立ち上がって、つられてお辞儀をする。

顔を上げる際、足元から舐めるように、けれど自然に、目線を優先とした上半身の動きになってしまうのは男の性だ、という言い訳をした。


薄い青色のベタ底なスニーカーに、上下ターコイズブルーのスクラブ、その上に純白のジャケット風な白衣を羽織っている。

一般的な医者の格好だな。と余裕は思った。

ただしそれが、スタイル抜群の、文字通り女優も顔負けな美人が着ているとあれば、話は全くの別物になる。


「何か付いてました?」

惜しくも上半身の動きを終え、がっかりしていたところに声をかけられた。

「いいえ…」

余裕は、自分がしていたことを明らかに見透かしている枢の表情を一瞥して咄嗟に真逆の方向を向いてしまった。


「そうですか…。どうぞ、おかけになってください」

枢は冷静に、しかし含みをもたせた言い方で着席を促す。

「はい、すいません」

何故か謝って余裕は着席する。


「どうやら、もう、大丈夫そうですね」

「おかげさまで」

「…」

枢は突然、ジっと睨みつけるように、俯いていた余裕の顔を斜めから覗き込むように見てきた。

「え? なにか?」

「医者の立場から、患者さんのプライベートについて聞くというのはある程度までならば許されると思っています」

「はあ」

余裕は自分が何を言われているのか要領がつかめなかった。


「一応聞きます。ご結婚はされてませんよね?」

「え?」

「恋人は?」

「は?」

目の前のモデルのような美人女医が一体なんの目的で自分にそんなことを聞いてきているのか、ありとあらゆる可能性のありそうな答えを巡らす。

普段ならば、考えれば考えるほど気分が高揚するようなことだったが、病み上がりの余裕にそれは少し酷な作業になってしまった。


「どちらも答えはノーですが…」

「わかりました、っと。では、最後の質問です。単刀直入に聞きますが…」

すでに単刀直入ではないと思うのだがと余裕は思ったが、この若さで医者、それもなんとなくだが醸し出している雰囲気でやり手な感じがするこの子が、前後の会話の内容を把握出来ていないのは、かなりテンパっているのだろうな、と納得した。


との関係は?」

「……は?」

「だめだ、これじゃ埒が明かない…」

そう言って、遠明寺枢は突然立ち上がり、ジャケットをバッっと着正し、ドカっと座り直した。

「すいません。先に謝っておきますね」

今までの印象が綺麗に消滅していく。


「ここからは妹として聞いていくから。いい?」

遠明寺枢は、明らかに口調を変え、顔の筋肉を弛緩しかんさせ、しかし目元だけには緊張の力を入れる。


「いつから付き合ってるの? 姉貴とは」

姉貴? いつから付き合っている?。

勝手に流れていく時間に振り落とされまいと、余裕は必死に意識を保つ。


「ええっと、なんのハナシをしてるのかオレがつきあっている…アネキ」

余裕は自分で言っていてなんのことか理解できない。


「そうよ。あたしの姉貴よ。ここまであなたを連れてきた『遠明寺椎おんみょうじしい』のことよ」


声が遠ざかっていく、どうやら耐えきれず振り落とされてしまったんだと、余裕はそれだけを理解していた。

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