第9話 きっかけ : side S

「本日も晴天なり!」

静は、街を歩いていた。

こうして街中を歩いているといつも静の脳裏には疑問が湧き上がる。


人、人、人。

なぜ自分以外がこんなにも沢山いるのかということに違和感を覚える。


「すーちんも、毎日こんなところで仕事して、よく気が変にならないよね」

静の独り言は、普段の会話と音量が変わらない。

すれ違う人達が、100パーセント振り返るほどだ。


黒、黒、黒。


「酸素が薄い! 空気が淀んでる! うまく呼吸ができない!」

すでにの人達には頭のおかしい人にしか見えていない。

「臭い、くさい。クサイ!!!」

この段階になると静の声は、独り言とはいえるものではなくなる。

すれ違うどころか、静を中心とする半径10メートルくらいの人間が、声の発生源へ、意識を他人へと向ける行為をするほどだ。


そんなことはどうでもいいと、構わず、静は空へと顔を向ける。


日光が構わず角膜を焦がす。


静が手でそれを遮るという行為をしていなかったからだ。


「あそこだけが白い」

静は両手のひらを太陽へと掲げる。

いっぱいに広げた指の間から差し込むだげに光量が減ってしまう。


「こんな感じか…」

呟いたその言葉は、静本人しか聞こえない程度に、独り言になっていた。


今朝早く、枢からモーニングコールというにはあまりにも刺激的すぎる呼び出しをくらっていた。もし今ここで再現したならば、半径10メートルの人間の視線を一身に集めてしまうだろう音量で。


「丁度いいや、イデム寄ってこ」

枢との約束の時間は、「病院の面会時間が終わるころに来い」と言われている。

なのにこうして来たくもない街中に、余裕を伴って出てきたのは、普段と違った景色が、今の自分には何色に視えるのか、という興味が湧いたからだった。


「にしても、あいっかわらず、黒一色。変化なしか」

静は後悔して、息を吐く。

それは、ここの空気に一瞬で馴染んでいった。


『(有)イデム』

静が贔屓にしている、創業25年の画材屋の名前だ。


品揃えは、世界一だと静が勝手に思っている。

必要になった時、時間を持て余している時、今みたいになんとなく寄った時。

どんな時にここに来ても、毎回、必ず、静の必要としてるものが置いてある。そんなところだった。


静は、ゆっくりイデムの分厚いステンドガラスの戸を引く。

それに連れて、カリーンっと来客を知らす鐘が店内に響く。

「いい音」

静はこの音が好きだった。


「いらっしゃいませ」

店長の羽生の声が、鐘の音が鳴り終えると同時に聞こえてきた。

店内は常にジャズが流れている。

静は、ここでしか聞く機会がないその音楽もなんとなく気に入っていた。


「こんにちわ」

外での声が嘘のような、おしとやかな声で静が羽生に挨拶をする。


「やあ、久しぶりだねしずかちゃん」

「お久しぶりです。」

静は、自分でも解っている。十分解っている。

例えば、今のこの姿を枢に見られようものならば、生きてはいれなくなるほど恥ずかしくなる。ということをしてしまっているということを。


「さて、今日はどうかな? お眼鏡にかなうものがあるかな?」

冗談混じりに羽生が満面の笑顔で静に聞いてくる。


その笑顔がこの店でいちばん、静は好きだった。


「えっと、あの、まだ入ってきたばかりだから、ぐるっと回ってきていいですか?」

「そうか、そうだよね。ごめんごめん、ごゆっくり」

そういって、羽生はどこぞの執事のように右腕を差し出し、静にどうぞと軽く会釈をし、体勢を半身にした。


「おじゃまします」

羽生とすれ違う瞬間、自分が的外れな受け答えをしてしまったことに気づき、顔色をトキの顔面のような朱にした。


羽生の何の気なしな行動は、静の中枢神経をこれでもかと刺激し、末梢神経にまで影響を及ぼした。

店内を歩いている時の静の動きをガチゴチにし、一挙手一投足を不審にさせた。

たまにちらっとレジの方へと目線をやると、真剣な顔でなにかしらの作業をしている羽生の顔が見えた。

静はシメたと、店内の商品には目もくれず、唯一まっとうに働かせられる視覚を覚醒させるがごとく、ズームという人間には備わっているはずもない機能を擬似的に使い、さらにフォーカスを合わせた。


「はあー、いいなぁ」

静は、自分では気づけていない乙女な声を漏らす。

もちろん、独り言な音量で。


有限会社イデムは、店長である羽生颯太はぶそうたが一念発起で始めた店だった。

一流美術大学を卒業し、何度か個展を開いたこともある、ある程度名の知れた『画家』だった。のだが、突然第一線を退き、今はこうして画材屋のオヤジをしているような、これもまた変人だ。


一度、静が羽生に自分の絵を見せた時、

「これだから絵描きは…」と呟くように言うと、一粒涙を流した。

その真意を未だに静は理解できていなかったが、妬み嫉みと、尊敬と、画家としての冷静な評価、そして涙。感情と感覚がグチャグチャに混ざった羽生のその表情を忘れたことはなかった。

男の涙というものを見たことがなかった静は、見てはいけないものを見てしまったという、大きな衝撃を受け完全に我を失った。

静が羽生のことを異性として意識し始めたのはその瞬間からだった。


「あ! 時間!」

静は慌てて携帯で時間を確かめる。


「やばい、こんどこそ殺される…」

ほかほかぽかぽか、もしくは、臙脂かっか、していた体の熱が一気に、ひやひやキンキン群青カチコチへと急激に変化していく。


「すいません羽生さん! また来ます!!」

そう言うと静は、一目散に、脱兎のごとく店を出てしまった。


「またきてよ」という普段通りの羽生の声を微かに聞き取りながら、始めて羽生のことを名前で呼んでしまったことに気づき、再度、体は臙脂色えんじいろの熱を帯びた。


枢の務めている病院に就く頃には、白色だった太陽は身を隠し、代わりに、黄色に白を少し混ぜた色をした、蓄光塗料を含んだ月が浮かんでいた。


「丸っ! 明っ!」

静は、数秒足を止め、月を眺めていた。

普段以上に熱をもってしまった体で全力疾走したこともあって、全身汗でビショビショだった。

「とりあえず、受付だね」

全身汗まみれなど微塵も気にするとなく、静は普段通りの会話をする音量で独り言を言って病院へと入っていく。


病院内はいやに静かで、静はなんだか、いてもたってもいられなくなった。

誰も居ないし構わないと、思いっきり廊下を全力疾走してやろうと何故か思った。


けれど、嫌でも目に入ってきたサンサンとした月光によって、その衝動を抑えられた。


「あったあった」

何度もここには来ていることもあって、静は受付の場所を熟知していた。


「あれ?」

それは、の静だったらの話。


今日の静は、そうではなかった。


どうしてここに来たのか、どうやってここにまで来たのか。

静の見つけた明かりは救急外来用のナースステーションの明かりだった。

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