第8話 友達。

「おーい、来たぞー」

静は覚悟を決め、鍵を開け、玄関の戸を押す。


あの出来事以来、静はこうして玄関に人間を入れる際、不意打ちに対する受け身をすぐに取れるようにと、杞憂きゆうな警戒心を持つようになっていた。


「なによ? 別に、昼間の続きをしようとここまで来たんじゃないわよ」

枢の言葉を聞いて、静はゆっくりと、猫のように地面スレスレまで低く屈んだ警戒心を徐々に緩めていく。


「つうことで、上がらせてもらうわよ」

そう言って枢は、静の住んでいるワンルームの賃貸アパートに問答無用と言わんばかりにズカズカ上がり込んでいく。


「ちょっと! すーちん!」

「あーあ、またこの状態。シズ、あんた、寝る時とかどうしてんのよ」

「別にこれだけ広いんだから、どこでも寝れるよ」

静は、枢の的外れな言動に当惑する。


静の借りているアパートは一般的なそれとは違う、ワンルームアパートという単語表記が誤謬を犯している構造で出来ていた。

それは、常識的は広さでいえば、七、八畳が妥当な広さなものが、二十畳という、このアパートを建てた建築会社はなんてアバンギャルドな会社なんだろうと思われてもおかしくない、賃貸本来の目的を無視した建物だった。


「それにしても、久しぶりにここ来たけど、本当に、というか、やっぱり、絵、絵、絵なんだね。シズは。」

「当然」静は嗜虐しぎゃく的に胸を張る。

「無い胸いくら張ったって、どうにもならんぞ」枢は言いながら部屋を見渡す。

その瞳はいつもの矜持きょうじに充ちた輝きを失っていた。


静の部屋は上下左右に半透明な工事用の養生シートを張り巡らせている。

当然、絵を描く際の絵の具の飛散などを考慮してのことなのだが、静には自分以外の世界を遮断するシールドの役割も果たしていた。

一度外へ出てしまえばあれやこれと、世界の全てをと捉え、時には勝負し、時には抱き合って意気投合する、攻撃と受け身の姿勢に対し、静にとって『部屋』とうのはそういう意味合いの空間だった。


「最近どうなの? あたしのギャラリー以外にはどこか他で飾ってもらったりしてるの?」

壁伝いには、静の描き溜めた絵たちが自分の出番はまだかと、騒々しく重ねて立てかけられていた。それらを枢は、一枚一枚慣れた手つきでコトコトと物色していく。


静は、枢の出すその音をとても気に入っていた。

シールドである以上、他人を部屋に入れるというのは、静にとって物理的にも精神的にも、自身の全てを晒すことになる。ダメージになる。

なのに、あんな一件があったとはいえ、無条件で枢を部屋に上げるというのは、静にとって枢が特異な存在だったからだった。


「何ヶ所かには置いてもらった。でも、どこも一枚だけ。すーちんそろそろ引っ越す予定とかないの?」

静が蛮勇ばんゆうをもって、それはとても静らしく聞く。


枢は『S・S』というギャラリーを開いている。

もとは、今の前に住んでいた分譲マンションだった。

とある理由で引っ越す経緯になったのを機に、「静の絵をなんとしても見て欲しい!」という理由を本人には言わず、ギャラリーに自分の絵をしょっちゅう持ち込んでいた静に、「だったら」と提案した。

枢は、静の特異な魅力に惹かれた一人だった。

それは、ギャラリーの名前にもなっている『S・S(しずか・すう。ではなく、すーちん・シズ)』にも顕著にあらわれていた。


「なんであんたの都合であたしが引っ越さないといけないのよ」

「いやいや、隠しても無駄だからねー」

「なんの話?」

「最近別れたでしょ? というか、フラれたでしょ?」

「やっぱ、バレてたか…」

「え? まじで? ブラフだったんだけど」

「きさま…」

二人は部屋を走り回る。

養生シートがカサカサとプラトニックな音をたてた。


約五分後、追逃走劇が互いの体力の消滅と共に終演を迎えた。


「はあ、はあ、お腹すいたね」静が言う。

「はあ、はあ、だな」枢が答えた。


二人は目に涙を浮かべて大笑いした。


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