第7話 きっかけ : side Y

携帯をツナギの胸ポケットから取り出す。


まだまだ残暑の厳しい日中。

余裕は今回の仕事現場である、河口の護岸工事をしていた。


連日の酷暑で夏バテ状態の職人たちは、それぞれ猫のように少しでも暑さを凌げる場所を求めてフラフラと歩いている。それはまるで安物のゾンビ映画の一場面のようにも見える。

「しかし、ああも健康的な体格をしたゾンビばかりだと、主人公達もさぞ苦労するだろうな」。余裕はそう思い、勝手に一人で、ぶっ、と吹き出し、取り出した携帯電話を操作する。


『そんなにあの絵馬の絵が気になるなら、どこの景色なのか探しに行くか?』

今朝、とはいっても、すでに真っ昼間のような気温だったのだが、島田からメールが送信されてきた。


昼休みに入り、余裕はおにぎりを一つだけ食べ、それをお茶で直接胃へ流し込んだ。

連日の猛暑で胃腸の調子を崩し、ここのところ食欲が激減していた。

時間を持て余して、『あてはあるのか?』と島田にメールの返信をすることにした。

すると、すぐに返答が帰ってきた。


『この前行った神社の帰り道、少しだったけど堤防走っただろう? もしかしたら、あのままあそこを走って行ったら絵馬と風景が見れるかもしれないぞ!」

『なんだよ、それ。勘かよ。』

『いいから、行ってみようぜ』


余裕は少し考えてから、

『わかったよ。丁度今週で今の現場も終わりになるから、ダメ元で行ってみるか』と返す。

すると、間髪入れず、

『よし! 行くか!!』

島田から返信がきて、週末の予定が決まった。


「新木君、彼女?」

現場に出ている職人達とは明らかに違う、甘ったるい匂いが、余裕の鼻を突く。


「ふー」と軽い溜息をついて、携帯をツナギの胸ポケットへしまいながら、余裕が声のした方へと頭だけを向け、相手が誰なのか一応確認する。


この現場の元請け会社の営業である、名前を忘れた、見た目余裕よりもかなり年下に見える女が、ピシッとした格好で立っていた。


グレーのパンツスーツに、30ミリ位のヒールの白いパンプス。

控えめなベージュのミディアムヘアー、その髪色に合わせた丸い小さなピアスをして、右手首には、なりは小さいが間違いなく高額な時計を緩めにつけ、完全に場違いな格好。


「えーっと…。お疲れ様です。早いですね、役所の現場視察は14時からだと聞いてますが?」

「なんですか? 時間外に来られて困ることでもあるんですか?」

「いいえ。」

「ならいいじゃないですか。」

余裕はできるだけ感情を殺して話す。


「どうです? 現場は順調に進んでますか?」

「はい。今週中には終わります。」

どうしてそんなことを聞くんだと、余裕は少し腹を立てたが、更に感情を殺し、機械のように喋る。


「相変わらず無愛想ですね」

「生まれつきなんで。」

互いに、目線を合わせること無く、抑揚を消した会話が続く。


「それじゃ、昼休憩もそろそろ終わるんで作業に戻ります。」

そう言い捨て、余裕は作業場所へとさっさと歩いていく。


「・・・・・」

何か言われたような気がして振り返るが、そこに女の姿はもうなかった。


作業場に戻る道すがら、毎回、防潮堤や、波消しブロックらの人工物が一切目に入らなくなる、眼前に海だけ見える開けた場所を通る。


余裕は、現場に入った日にこの場所を見つけ、とても気に入っていた。


まだ誰も来ていない時間に見る、朝日に照らされ風浪に動く海面。

昼食時の、勢いよく崩れる干潮の荒波。

一日の疲れを写すように、今にも鎮静してしまいそうな音をだすさざなみ


どの景色にも興趣きょうしゅがあり好きだったが、昼食時に見る、『The海』な荒々しい波を次々と生む景色が余裕は一番好きだった。


「今日も元気ですなー」

ヘルメットを被っているせいか、勢いよく吹き出てくる汗を手で拭いながら海に声がけする。


普段よりも長い時間海を眺めてしまっていたことに気づき、焦って勢いよく一歩踏み出す。

その時だった。


始めは目に汗が入ったせいで景色が歪んで見えたのかと思っていた。

しかし、そのうち暗くなっていく景色に、おかしいと気付いた余裕は、意識に集中しようとする。

同時に、体にも力を込めたが、思うようにいかない。意識は分散するし、力は逃げていく一方。

ドサっという、何かを砂面に落とした時のような音を聞くと、余裕は意識も力も完全に失っていた。



「…白?…!?」

青色だった景色が、気付いた時にはその色に変わっていたことに余裕は驚き、起き上がろうとした。

「あれ?」

ぼんやりした視界に、反応の遅い体。

「いたっ」

覚えのない左肩の痛み。

「おれ、倒れたのか…」

ようやく状況が飲み込めて、辺りを見回す。


『遠明寺建設』とプリントされたヘルメットに、自分の名前、血液型の書かれたシールが貼られているのが見える。


「やっぱりかぁ……って、現場は!?」

余裕は、いうことをきかない体をできる限り早く動かし、焦燥感を打ち消すように携帯電話を探す。


「あれ? ない。どこだ? ん?」

四足の背もたれの無い、座面が緑色のビニール地が張られた椅子の上に、綺麗な字で丁寧に、

『貴重品は1階のナースステーションに預けてあります』

と書かれた、手帳を一枚破いた紙が置かれいることに気付く。


余裕は、誰が書いたか分からないその紙を、折り曲げないようにそおっと手に取り、よたつく体にムチを打って、1階のナースステーションを目指すことにした。


余裕の眠っていた場所は病室ではなかった。

緊急外来用の診察フロアの一角にある、点滴などをする際に、一時的に横になるための簡易的なベッドで眠らされていた。


面会時間が終わったのか、ナースステーションに向かう途中の廊下はとても静かだった。

窓から差し込む月明かりが、壁に取り付けられている木目調の手摺を、妙に荒々しく照らしていた。


「満月だ。」


自分のいる場所が何階なのかすら分かっていなかったが、先の見えない四角いトンネルのような廊下が、この病院の規模を知らしめる。

余裕は、痛む左肩をなんとなく右手で庇い、上手く力が入らずにいる両足をずってトンネルの出口を目指す。

昼間の避暑地を求めさまよっていたゾンビ達と同じような動きをしていることに気付くと、「ぷっ」と控えめに吹き出してしまった。


外は湿り気のある東風が強く吹いている。


「あした雨か…」

窓越しに木々の揺れを見て、余裕は残念そうに呟く。

ふと、窓ガラスに映る格好が、作業着であるツナギのままなのに気付く。


「今日の作業大丈夫だったかな…ん?」

余裕は、ポワっと光る微かな明かりを見つけ、あてもなく歩いていたきたトンネルの出口を発見する。

僅かに足の動きを早める。

近づくにつれ、その明かりがナースステーションだということが分かった。

余裕は完全に走り出す。

目的地に辿りつけたことに安堵して、奥で何かしらの作業をしている看護師に話しかけようとした。


「綺麗な色、なんて名前ですか?」


余裕は、予想だにしない聞いたことのない声を聞いた。

それは当たり前なことで、そうだとも思えなかった。

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