第6話 日常。

0勝7敗。


これは、静と、幼馴染の、青鬼こと外科医の遠明寺枢おんみょうじすうとの痴話喧嘩の戦績だ。

喧嘩とはいっても、一方的に枢が静に向かって説教をするという図式なので、どちらが勝った負けたというのは成立しない。


勝敗という解釈にしてしまっているのは、静が勝手にそういうふうに思っているだけだった。


あれほど暑かった赤色の空気は、その水蒸気の濃度を増やし、ゆっくりと中性色へと変化させ、薄いピンク色へと脱色されていた。


「いいね、その感じ!」

絵筆を片手に、静はピンク色の太陽に向かって叫ぶ。


河川敷の土手を、同い年の愛犬とゆっくり散歩している老人。

ランダムに配置されているベンチに向かい合って座り、アイスを食べながら楽しげにしている高校生カップル。

夕飯の献立に使う材料を、袋いっぱい両手に重そうに持ちながらも、笑顔で帰路につくお母さん。


その全てに等しく太陽は、中性色という、中途半端な色を背負わせている。


「すーちんはああ言うけど、やっぱり諦めるわけにはいかないよね」

静は自分が、目に映るそれらの人たちと同じように、中途半端な中性色をいつの間にか背負っていたことに気づき、急いで180度向き変える。

結果、後ろ歩きの状態になってはしまうが、構うこと無く、


「まだ負けてない!」と大声で哮る。


その声がきっかけで、散歩している老人と犬、向き合っているカップル、いっぱいの袋をさげたお母さんが、一斉に、後ろ歩きの静の方を向く。


偶然にも。

静を見た人たちは、その顔面に思いっきりピンクの光を浴びる羽目になった。


               *


部屋に着いた時には時刻が20時を回っていた。


静はルーティンである、その日使った筆やら、パレットやらを洗うとのと一緒に風呂に入っていた。


今日使った色たちが、指先から水道水によって流されていく。


「今日は青、緑、茶、それに赤。」

微かに自分にも聞こえる、湿り気の少ないかすれた声で静は呟く。


体から離れていった色たちは水道水と混じり、浴室の床の勾配に任せ、排水口へと落ちていく。


静は外で絵を描く際、水彩絵具を使う。

それは、刻々と変化する風景に追いつくためだった。

臨機応変ならぬ、臨機するためだった。


水に熔解されていく、青、緑、茶、そして赤。

他の色と混じり合うのを拒むように、粘土を失いつつも、次第に靄となり、断末魔と言わんばかりに自分を大きく見せていく。

最終的には、死を悟った色たちが結託し、自分が何色になろうと構わないと、生にしがみつきながら水によって流されていく。


その光景が静は嫌いだった。


自分の体と一緒に風呂で洗うようになったのは、流れていく色に自分の汚れが混ざっていくのを確認することによって、僅かでも死を共にしていると実感できるからだった。


風呂からあがると、携帯が足元で微かに明滅していた。


「まずっ、連絡するの忘れてた」

病院を逃げるように出ていく時、枢に、家に無事着いたという連絡を入れろと言われていたことを静は思い出した。

反射的に携帯をすくい上げ、一瞬迷い、とりあえず着信履歴を恐る恐る確認する。


「こわっ」

画面いっぱいに表示されている『青鬼』という履歴表示に、今度は脊髄反射で携帯を投げ捨てた。

それは、無機質な機械とは到底思えないような熱を帯びているように思えたからだった。

いや、実際には、度重なる着信に呼応することで、軽く熱暴走を起こし、機械が自らを守るように放熱行動をしていた。

しかし、そのことがより一層静に恐怖を与えてしまっていた。


ここで折返さないと、事態はさらにまずくなることを実体験により静は知っている。


最初の頃は、気にも留めず無視をしていたが、4回目の時、それは起こった。


その頃の静は、一連の流れがあった夜、携帯の着信履歴を知らす光が点滅していることを目で確認することはしても、拾い上げるまでには至らなくなっていた。

それに加え、突然、前触れもなく自己主張するように音を出す、携帯という機械が気に入らず、普段からバイブ仕様にしていたこともあって、その後の鬼のような着信、いや、今となっては、鬼からの着信を逃避することは難しくなかった。


しかし、奇しくも4回目というその時。

いつも通り、点滅している携帯を一瞥すると、突然、ドンドンとドアを叩く音がした。

実際、それは叩くではなく、殴っていたのだが、突然鳴った携帯電話の何百倍もの轟音に、違った意味で心臓を鷲掴みにされたように思った静は、不覚にも玄関のドアを開けてしまった。

次の瞬間、何か黒い塊が自分の体に体当たりをして来たと思ったと同時に、静の体は玄関の外へとほうり投げ出されていた。

それが、見事な放物線を描く、一本背負いという技だった。

見おろされたその顔を確認しつつも静は、黒い塊が誰なのか見当がついていた。

それが、想像通りの顔だったことが分かると、安心して意識を失っていった。


「すいません。ごめんなさい。モウシワケアリマセンデシタ。」

静は知りうる限りの謝罪の言葉を電話相手に伝えた。


「シズ、あんた、最後の謝罪の台詞、始めて使ったわね?」


ドンドンと玄関のドアを殴る音。

それは勿論、あの時の黒い塊、遠明寺枢黒鬼だった。

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