第5話 逃げる男。

どうするんだ?」

運転しつつも横目で、助手席の余裕に島田が聞く。


「どうしよう」

「はあ? だって、わざわざ宮司さんにその絵馬が欲しいって頼みにいったくらいなのに、どうしようかってなんだよ」

「どうしようもなく欲しくなったんだからしょうがないだろう。それに、」

「それに? なんだよ?」

「あそこに置いておきたくなかったんだよ」


余裕は、絵馬を両手で持ちながら、たまに、両手の親指で絵馬に描かれた絵の輪郭線をなぞってた。


その絵馬に描かれた絵は、夕暮れの河川敷を素描されたものだった。

おそらく鉛筆で描かれたそれには彩色はされておらず、文字通り、荒く、素っ気ない線だけが描かれていた。


「デッサンっていうやつだろ、それ?」

山道に差し掛かり、慎重を期すため、島田は両手でがっしりとステアリングを握り、ゆっくりと丁寧に車を操作する。


それはまるで、絵馬を貰いに行くという、普段なら絶対にそんなことをするような性格ではない余裕が、常識外れも甚だしいことを、臆すること無くしてまで手に入れた物だから、決して余裕の手から離れないようにと、そうしているようにもみえた。


「そういえばシマ、絵とか詳しいんだったっけ?」

丁寧な運転を心がけいる島田の思いもよそに、余裕は、今度は窓の方へと絵馬を掲げてみたり、陽のあたるようにと、後部座席に体全体を車の進行方向とは逆方向に向けたりしていた。


「おい! 大人しく座ってろ! お前今年でもう三十七だろうが!」

島田が、片手ハンドルになってしまうが構わないと、思いっきり余裕のTシャツの裾を引っ張る。


「どう? この絵? どう思う?」

余裕は、島田に促され大人しくちょこんと助手席に正しく座り直す。


「るーむ」。「シマ」。

この呼び方はお互いの間でしかしなかった。

先に述べたとおり、島田が余裕を呼ぶときに使う「るーむ」とは、余裕という単語を英訳しただけのあだ名だ。

それに対し、余裕が島田を呼ぶときに使う「シマ」とは島田の『島』が由来になっているという、よくも簡単で幼稚な呼び方だった。

『るーむ』である余裕は、そう呼ばれるのが島田だけだというのを勿論知っているし、島田も自分のことを『シマ』と呼ぶのがことを知っていた。


「別に俺は絵を見るのが好きなだけで、詳しくはないからなぁ…。うーん、どうだろう。確かに上手だけど、なんていうか、いくらデッサンだからって、線が荒過ぎるかな。それに、その絵ってあそこじゃ書けないよな?」

チラチラと、前方の景色と、絵馬を繰り返し島田は見る。


「そうか! そうなるとこの絵って、わざわざあの神社で絵馬だけ買って、この景色の場所でデッサンして、またわざわざあそこまで持ってきて飾っていったってことか!」

「いや、飾るって。絵馬は普通、奉納するもので、飾るって言い方は違うような気がするけどな」

「違わないよ。だってこれって絵だから」

そう言うと、余裕はまたゆっくりと絵馬に描かれた絵の輪郭線を両手の親指でなぞり始める。


「どうしてそこまでその絵馬が願いごとが込められていないただの絵だって言えるんだよ?」

前を向いた目線はそのままで島田が聞く。


山道はすでに抜けて、平坦で緩やかなカーブを描く道に出ていた。

島田の運転にも余裕が出ていた。


「だって、これ欲しいって社務所に行ったとき、宮司がどうぞって言ったから」

「なんだそれ? 絵馬が欲しいっていうるーむも変だけど、あそこの社務所の宮司さんもかなり変わってる人だな」

「ちがうちがう。この絵を飾っていったひとが、「自分の絵を欲しいって人が来たら渡して下さい」って言って置いていったんだって」


舗装された緩やかな峠道を走り終え、ささやかな沢だった水の流れが、その勾配を失うにつれ、ベルヌーイの定理通りに逃げ場のなくなった力を、横方向へと変遷していく。

それは、自然の厳然としている本物なものだった。

人間では到底どうすることも出来ない力。

余裕は自分の仕事が、その本物の力に常に抗っていることが嫌だった。

建築関係の仕事だと先に述べたが、正確には、土木作業がメインの、いわゆる土建屋だった。


山に行けば、崩落防止の法面へのコンクリート吹付け工事。

川に行けば、越水や氾濫を防止するための間知ブロックによる護岸工事。

街に行けば、大雨時の対策として大規模な暗渠の埋設工事。

海へ出れば、何キロにも及ぶ、津波対抗の防潮堤工事。

それに加え、雨天での工事、強風での工事、夏の災害級の熱気のなかでの屋外作業。と、細かいところまで述べれば切りがない。


その全てが自然による弊害だ。


本物に偽物が抗うなんて、馬鹿げている。ナンセンスだ。

精々、人間が地球という訳の分からない漠然とした敵に勝負を挑み負け続けた末の生きるてだて、蛮勇でしかないと、余裕はそんな自分の考えが猜疑心のまったくない妙諦とさえ思っていた。


だとしたら、この手の中にあるこれはなんだろう?


余裕は、輪郭線をなぞっていた親指の力を強める。


それは、無意識に、おそらく鉛筆で描かれたその線を消そうとしていたのかも知れない。

けれど、気持ちのいいくらいに走り描きされた、素っ気なく、荒々しいその線は一向に消える素振りをみせなかった。


「ふう」と、溜息まじりに余裕は、視線を外の景色へと逃げるように逸らす。


島田の運転する車は、余裕の実家である土建会社が工事したことのある堤防沿いを走っていた。


そこには、今にも沈みそうな、夕日と名称を勝手に変えられた太陽が、過ごしやすい気温になり散歩をしている人類に対し、「おれは太陽だ!」と訴えかけるように、怒りを熱に変え真っ赤に燃えていた。


赤は怒りの色だ。


余裕は自分に確かめるように呟いた。

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