第3話 プロローグ
恋。
例えばそれは、分かりやすく、難しい。場合によって、軽くて重い。
時には水のようでもあり、炎のときもある
大衆は恋という意味を正確に理解することなく各々の解釈で、その言葉を使う。
一瞬の感情に任せ使い、熟考の末に使う。
そのうち、恋という言葉がその人間に付随する。
まるで生き物だ。
人間は言葉を生き物にできる。
言葉を使う地球上の生物はそれぞれの言葉で関係を作る。
ただしそれは、言葉としてという使用方法のみだ。
しかし人間界でその方法は通用しない。というよりもそんな使い方ができる人類など存在しないといったほうが正しい。
言葉は、個人によってその解釈は変わる。
当たり前だ。
恋という言葉と同様、意味を知らず使うからだ。
それどころか、意味という言葉にも意味があり、それが言葉なのだから正解がないということだ。
そして、得体の知れないそれに、命を吹き込む。
とても恐ろしく、愉快で。卑しく、尊い行為だ。
便利で、不便なものだ。
男は今、そう考え、思っていた。
「好き。」
目の前にあるものに、そう言ってしまった。
「…だ」や、「…です」のような助動詞が付随することなく単語として言葉にしていた。
呟くような声になってしまったのは、まだ、本人の意識がついていけていなかったからだろう。
「どうだ? 久しぶりにこういうところに来るのは」
少し離れたところで、本来見るべきものを見ながら、それには目もくれない
「大概こういう時ってシラケる雰囲気で終わるよな」
余裕が不機嫌に答える。
「お!? それって、今回はそうじゃなかったってことか?」
「ああ、素直にここに来てよかったってなってるよ、今」
余裕は気分が良くなっていくという感覚を久しぶりに感じていた。
自分の感覚というものが歳を取るにつれ分かりにくくなって、ましてや、実感などという段階に昇華することなど、この数年まったくなかった。
「でも驚いたな!」
「なにが?」
さっきまで聞こえていた声の音量が突然大きくなって余裕は驚いたが、真横まできているにも関わらず、今日自分のしたことが余裕のためになったのだと、音量を変化させることを忘れている男に、少し腹が立ち意地でも表に出すまいと平然を装った。
「なに驚いてるんだよ、るーむ。」
余裕の思惑などなんのそのと、男は心情を見抜いてしまう。
「るーむ」とは余裕のあだ名で、中学のころに出会った時からずっとこの男だけがその固有名詞を使って余裕のことを呼ぶ。
ちなみに、『るーむ』とは、『余裕』を英単語に訳しただけの安易なものだ。
余裕はこの男のその呼び方をなぜか気に入っていたが、例えば、今居る参拝客が多くいるような神社なんかで、大声でそう呼ばれると、違和感と興味で他人の目線が一斉にこっちに向くことが多々あるのはこの歳になってもさすがに慣れなかった。
「それにしてもるーむ、ここにきてからずっとこの絵馬だけ見てただろう? どうしてそんなもんばっか見てるんだよ。いつもはこういう場所にくると建物とか、手入れされてる木とかばっかり見てたじゃないか」
「それはだって、いつもは、そのくらいしか時間潰せる方法がなかったからな」
「お前、こんな遠くまで俺に連れてきてもらって、よくそんなこと言えるな」
「別に頼んだわけじゃないしな。でも感謝はしてる。ありがとう。」
余裕は無関心にそう無感情に答える。
話している間、余裕は一度も絵馬から目を外すことをしなかった。
男との会話をを煩わしく感じていた。
それなのに、男との会話を続けていたのは、目の前の絵馬を今日この神社に連れてこられなければ観れなかったとういう素直な感謝と、神社という場所柄からくる気まぐれな敬虔だった。
「それにしても悪趣味だなぁ。他人が書いた絵馬をずっと見てるなんて。社務所の宮司さんとか巫女さんの目線さっきから凄いぞ」
余裕にはすでにその言葉はとどいていなかった。
会話するのがいよいよ邪魔だと感じ、周りから聞こえる音という音を全て排除していたからだ。
そのおかげで、さらに深くその絵馬に集中することができた。
「他人の願い事なんて読んで、なにが面白いんだよ」
余裕のリアクションがないことなど毎度のことと数少ない友人である
「なにか気になる願い事でも書いてあったのか?」
島田が余裕の目線をじゃまするように、何百と吊るされている絵馬に書かれた、何百もの神頼みのとの間に頭をヌッと出す。
「どれどれ…、なんか普通な願い事ばっかしだな。これといって面白いものなんてないじゃないか」
島田がまるで、どこぞで見たことがあるダンスのように、上半身全体をぐるぐる上下左右に回しながら、余裕の興味のありそうな他人の願いに検索をかける。
「願い事なんて見てない」
そう言いながら余裕は、島田の上半身のこれでもかという邪魔な動きを強引に止めさせ、自分の体の目の前にその絵馬が来るように態勢を整え直す。
「いてて、じゃあ何見てんだよ?」
「文字じゃない」
「はっ?」
「俺は他人の願い事なんてどうでもいい」
余裕は仕方なく、自分が突っ立った時の目線より少し上のところにある一枚の絵馬を指差した。
「文字じゃないってどういうことだっ…」
島田は、余裕が指差したその絵馬を見て言葉を止めてしまう。
「絵馬だからこれってオッケーなのかな?」
余裕はその絵馬をずっと観たいたこともあって、島田の思考よりも先の質問をする。
「まあ、絵馬っていうくらいだから良いんじゃないのか…」
なんとか余裕の思考に追いつきながらも、少し上の空で島田は質問にいい加減に答える。
「でもこれって、明らかに絵馬として書いてないよな。というか、まるで、他人の目に晒されることが前提で描いてるような…」
「どうかな…、いくら書いてあるのが絵だけだからって、何かしらの願いはこもってるんじゃないか?」
余裕は島田のその答えは絶対に間違っていると思った。
それは、その絵だけの絵馬を見つけた瞬間、余裕の感じたものが、晒されることを前提に描いたもので、置いてもらっているというよりは、飾ってもらっている。神頼みというよりは、神に対する挑戦状でもあるような、到底場違いな、俗にいう絵画にしか観えなかったからだ。
そして余裕は何故か、この絵は女が描いたものだと思った。
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