第34話

「ああ、確かに謝罪は受け取った。ただ、あのとき紫乃を連れていくことを決断したのは俺だ。その点については紫乃に責任はない。体調不良にしてしまってすまなかった」


 紫乃はぱちくりとこちらを仰ぎ見ている。何か疑問があるのか。


「蓮司のせいではありません。あれは不測の事態でした。蓮司がいなければ、わたしはもっとひどい惨状になっていたことでしょう」

「君を助けたのは町医者だ」

「それは聞いています。けれど、ずっと抱き上げて運んでくれたことをわたしは知っています。蓮司は文句ひとつ言わずにわたしを支えてくださっていました」

「体調を崩しているのだから、支えるのは当然だ」

「ありがとう存じます」

「どういたしまして」


 謝罪の受け答えには窮する。友だち同士のそれとは違って重い。だが、お礼には呼応する定型句がある。たとえ反射であろうとも答えられるだけいいほうだろう。


「だから、気にしなくていい。今日はもう遅いから部屋に戻りなさい」

「あと三週間は来られませんよ。蓮司は大丈夫ですか?」

「何の心配をしているんだ」


 つい今しがたまで、行き詰まっていた。気を取り直したばかりであるというのに、よく白々しく言えたものだ。しかし、紫乃に心配をかけたくはなかった。それは自分の立場のこともあるが、紫乃の薬という点でもそうだ。

 しかし、紫乃はそれで誤魔化されてはくれなかった。


「上手くいかなくても大丈夫ですからね」

「そう簡単な話じゃない」


 俺が大丈夫でないことはこの際どうだっていい。

 そりゃ、困る。困るが、最悪どうにか薬液を売りさばいて生きていくことはできるだろう。その販売ルートを探す手間はあるだろうが、やらなければならなければやるだけだ。それで構わない。道がないわけではないのだ。

 だが、この薬は紫乃のためのものである。上手くいかなければ、紫乃を救えない。それは大丈夫だと言い切れたものではなかった。

 眉を顰めた俺に、紫乃まで渋い顔になる。暗がりにいるものだから、余計に暗さを匂い立たせていた。


「わたしは気にしませんよ」

「気にしろ」

「わたしは変わりません。それに薬は今日明日にできるものじゃないことをわたしは知っています。薬そのものの知識はありませんけれど、たくさん処方されてきました。わたしに合う薬が大変なことは知っています。そして、今のところ虚弱を治す便利な薬はありません。分かっています。それを蓮司が今すぐどうにかできるとは思っていません」


 淡々とした言葉はどれも真実で、紫乃の諦めが滲んでいる。芯から諦めているわけではないのだろう。それでも、期待し過ぎないように。無意識下で抑制しているようだった。


「……俺はやりたいからやっているだけだ」

「焦らなくていいですからね。わたしのためだって、無茶しないでくださいね」

「分かったよ」

「行き詰まったら会いに来てもいいんですよ」

「俺を辞めさせたいのか」

「嫌です。……置いていかないって言いました。独りは嫌です」


 ぼつりと落とした後に、焦ったように言葉が重ねられる。どれもこれも強く心を揺さぶるものだった。

 俺は窓越しに手を出して、紫乃の頭を撫でる。


「約束しただろう? 将樹様の前で嘘をついたら辞めるなんて生温いことで済まない」

「……それは大変な保証人がいたものですね」

「君のお兄様だ」

「心強いです」

「俺は怖いよ」


 話が横道に逸れたわけではない。しかし、和やかな空気になった。

 ずっと頭を撫でていた俺の手を紫乃が取る。何度もやってきた触れ合いだ。今更、特別な意味を持ったりしない。ただ少し間が空いた分、その自然さが懐かしさを抱かせる。そのくらいのはずだった。

 握られた手のひらが胸元へと引き寄せられる。前のめりになる羽目に陥ったが、振り払うわけにもいかない。俺は苦笑いで紫乃のなすがままになっていた。

 穏やかな接触としていたものが吹き飛ばされたのは一瞬だ。引かれていた手の甲に紫乃の唇が落ちる。

 ぎょっと目を見開いて硬直してしまった。


「紫乃……?」


 尊敬の意として、主の手の甲を額に押し頂くことはある。それが口付けになると敬愛の意図が強くなり、主には社交界での男女の仲において用いられる仕草だ。

 といっても、俺はどちらの意でも使われたことも使ったこともない。上級社会では通例であるから、紫乃にとっては身近なものだったのか。そうだとしても、ここまで一度だってそうされたことはなかった。異質な事態であることには間違いない。

 唖然とするより他になかった。


「わたしは確かにまだ直接に、蓮司を雇っているわけではありません。けれど、蓮司はわたしの庭師であり、薬師です。お父様もそう言いました。そう言いつけるということは、わたしに決定権を預け、仕えるものを使えるようになるための訓練とも言えます。ですので、蓮司をどうにかするのか。最終決定権はわたしにもあります。ですから、心配しなくて大丈夫ですよ」


 簡単に言っているわけじゃない。寂しいから。謝罪のために。それほど簡単な調子で来たわけでもきっとない。こうした振る舞いで示すほど厳かな気持ちで抜け出してきたのだ。

 これで俺の進捗に何らかの影響が起こるわけではない。そんなことは、紫乃だって分かっているだろう。それでも、自分の立場を伝えにやってきた。

 小さくて華奢で、そのうえ虚弱。自分が守らなければとそればかりを考えてきた。それがなくなるわけではない。恐らく、延々に変わることはないだろう。

 しかし、紫乃は心までただ守らなければならないほど弱い存在ではない。それが表層に浮かぶ。

 彼女は百合園のご令嬢で、責任の持ち方を知っていて、若当主相手であったってそれを揺るがすつもりがない。紫乃はぎゅっと俺の手のひらを握り締めてくる。


「ですから、」


 そこまでは淡々としていた。その声が震えて止まる。強い心根を持つ紫乃が躊躇う続きに耳を傾けた。

 じっと待っていると、紫乃の瞳が緩く伏せられる。闇夜の中に輝いていた赤い瞳が伏せたられたものだから、暗黒が際立って落ち着かない。

 紫乃はしばしの間を置いて、ぱっと顔を上げた。ぶつかったルビーのような瞳は、潤んで星々に艶めいている。美しさと儚さ。寂しさや決意。色々な感情が交ざり合った色が、俺の心を縫い止めた。


「不安に思わなくていいですから、無理せずに一緒にいてくださいませ」


 夜の閑寂。どこかで虫が鳴いているし、細やかな風に葉が揺れる音はしている。その中に、細々とした紫乃の声が落ちた。

 紫乃はそのまま表情を歪める。我が儘を言わずに過ごしていた。その事実を俺はもう知っている。その紫乃がこれを言うということは勇気を出したことだと。それを察することができるものだから、破壊力は格段に増す。

 どくりと跳ねた心臓が痛かった。


「……ああ。約束しよう」


 紫乃のために。

 意志があることはいい。しかし、そのことに粘着して視野が狭まってしまっては意味がなかった。目の前が開けたような気がする。


「いいのですか?」

「指切りをするか?」


 子どもの相手をしているから言い出したわけではない。人としての繋がりを覚えたからこそ、そうしたことを言う余白ができた。一度やったことだということも後押しをしていただろう。

 紫乃はぱぁと瞳を輝かせて、俺の小指を掴まえて絡めてくる。ぶんぶんと振られる威勢の良さは、責任を話していたときとは違う無邪気さいっぱいだった。それはいつもの紫乃の態度で、俺も肩の力を抜く。

 それは紫乃が現れてからのものではなく、もうずっと力んでいたものだったのかもしれない。

 適度な息抜きは必要だ。ほっと息を吐き出すと、それが笑みに変わった。紫乃はそんな俺の様子を横目に、最後まで約束のための指切りを歌いきる。そうして、俺は紫乃との触れ合いから解放された。すっかり満足そうな顔をしている。


「それじゃ、もう戻れ」

「……はい」

「気をつけて戻りなさい。おやすみ、紫乃」

「おやすみなさい、蓮司」


 別れの挨拶はいつも通りだ。ただ、紫乃をいつも通りに送り届けるわけにはいかない。どうしたって見送るしかない俺に、紫乃は名残惜しそうにのそのそと動く。

 懐いているのは、紫乃だけではなく俺も一緒だ。


「またな」


 その一言が、紫乃の心に届いたのが分かった。次がなければ出ない言葉だと気がついたのだろう。紫乃は笑顔で踵を返していった。

 少し行ったところで、他の人影と合流する。どうやら、結月さんを味方にしていたようだ。どれくらい聞かれていたのか。そう思うと苦笑も零れるが、既に将樹様相手にやらかしている。今更、取り繕うようなことはひとつもない。

 そうだ。将樹様にも、紫乃を大切にすると、ともにいると、責任問題を引っかけられている。じたばたしたって仕方がない。一緒にいることを約束したって重くはない。

 頑張ろう、と温和に思えた。

 それは肩肘を張るのではなく、自然にやることだと腹を括ったようなものだ。行き詰まりに息苦しくなっていた感情が解け、爽やかな気持ちで紫乃が帰って行くのを見送った。

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