第33話

 花の蕾は、六つはついている。このうちのひとつを切り取り、花びらを採集した。エーデルワイスを駆使して、冷凍保存。一枚一枚を慎重に使って調剤を重ねた。

 現存の体力回復薬から量の変化を加えて、微細な調整を繰り返す。地道過ぎる研究は、しかし俺には苦痛をもたらしはしなかった。

 とにかく一心不乱に研究漬けになる。そんな日々はあっという間に過ぎ去り、一週間は矢のように過ぎ去っていった。紫乃とは休養日を含めて二週間会っていない。

 そのカウントを行っていたわけではなかった。だが、数日間に数時間。喉が渇くほど議論を交わしていた時間がなくなった。その喪失感というのはでかい。数えるともなく、物足りなさを感じていた。

 しかし、接近禁止が出ている。一ヶ月間。俺たちの花学談義は禁止事項であるし、どうしようもない。そして、喪失感を覚えながらも、それだけに身を溺れさせる余裕はなかった。

 調剤とは本来、もっと長い期間を要する。なので、最初の一週間に進展がなくとも、そこまで慌てることはなかった。こういうものだ、と割り切っていたし、新しいことに挑戦する高揚感が勝っていたのだ。

 だが、限度と締め切りは気持ちを削っていく。進展のなさに気持ちが焦り、余所事に割いている時間はなくなっていった。

 何より、むやみやたらと研究を繰り返すわけにはいかない。花びらの枚数は限られている。この先、繁殖のことも考えれば、使い切るわけにはいかない。

 長期研究として、補充可能な予定だった。しかし、今となっては先行きは不明だ。採集の目処がついていないものを使い切るわけにはいかない。せめて、ひとつの蕾は残しておきたかった。

 花びらの枚数が多い品種なのは不幸中の幸いだ。ドレスのような花びらは折り重なっていて、五枚ほどで構成されている花に比べればずっと研究に費やせている。

 それでも、成果は得られていなかった。そうしてじりじりと体力と気力が削られていく。そうなると、集中力も落ちていく。そんな状態で手元でも狂えば事だ。

 休憩することは避けられず、どうしたって効率が悪くなる。その状況にイライラが募り、悪循環が巡っていた。抜け出そうにも、離れからの外出を禁じられている。八方塞がりの俺は、無意味に掃除する時間を持つようになった。

 まるで学生時代のテスト前だ。やることが変わっていない自分にげんなりした。それがまた、意気を消沈させていく。完全に坩堝だった。

 それでも、何かをしていなければ落ち着かない。掃除や片付けの手を止めて、何もしていないという状態を作るのが恐ろしかった。どちらも時間を浪費していることには違いないが。

 そうして手慰みをしているうちに、旅の際に羽織っていたコートの内ポケットから、紫乃からもらった紙片を見つけた。決して、粗雑に扱っていたわけじゃない。しかし、旅の慌ただしさと研究の日々に後回しになっていた。

 紫色の薔薇の押し花。胸の中にあった喪失感が膨れ上がっていく。仕方のないことであるし、そこまで紫乃に執着しているつもりはなかった。

 将樹様も騎士団の寮で謹慎を食らっているという。紫乃に会えないことを嘆く手紙が届いていた。自分はそこまでではない。そう感じていたものが、崩壊していく。

 紫乃に会いたい。

 まさかこんな感情に突き動かされる日が来るとは思わなかった。疲れている。

 肺胞を潰すかのように、吐息が零れ落ちる。ぐしゃぐしゃに掻き乱した前髪をそのままに、足を投げ出して椅子へ腰を下ろした。がたりと響く音ががらんどうに落ちる。

 ぼうっと目を投げた窓の外は、暗くなっていた。夜空が窓の上部に星をきらめかせている。旅の間は見上げることも多々あった。紫乃を抱き上げて見上げたこともある。思い出そうとしなくとも、身体に乗り上げる紫乃の体温も重さも蘇った。

 手にした紙片をさらりと撫でる。思えば、紫乃に触れることに慣れきっていった。その手癖であるのかもしれない。

 苦笑しつつも、空を見上げる。将樹様と紫乃のためにと言い合って腹を括った夜まで思い出された。諦めるつもりは初手からない。だからこそ、焦ってもいた。その感情が爆発的に広がっていく。

 紫乃のために。

 これは自分の進退のためにやっているのではない。責任や任務というものは、後からのしかかってきたものでしかない。根本をはき違えてはいけない。目的を見失ってはいけない。これは俺が紫乃のために自主的にやり始めたことだ。俺の意思でしかない。決して違わない。

 燻るような火種が血を滾らせる。それで、ただ焦っていただけの今までと状況が変わるわけではない。しかし、意志の違いは明確に気力を立て直した。燃え盛る感情を押し込めて胸の中に灯す。

 よし、と気持ちが改まった。

 後片付けなど投げ出して、テーブルの上に広げている研究資料へ視線を戻そうとする。その動きの前に、かたりと忍び込んできた音が視線を窓へと留めた。

 風か、と思った矢先に、窓の下のほうにぺたりと手のひらが押し付けられる。ひっと喉がひくついたと同時に、その手のひらの正体に気がついて怒りに似た感情が湧き上がってきた。

 状況は見極められているくせに、冷静ではない。タイミング的にも、情緒がひっちゃかめっちゃかだった。

 俺は馬鹿みたいに慌てふためいて窓へ近付き開いて、下を見下ろす。

 そこにはケープで身体を覆い尽くした紫乃がぽつねんと立っていた。会いたかったのは本当だ。久方ぶりに見る元気そうな顔には安堵した。

 しかし、この暴挙は許されない。旅に出てきたのは、まだ禁止されていたわけじゃなかった。だが、今は違う。謹慎を命じられている。とてもじゃないが、許されない。紫乃だって重みが分かっていないわけではないだろう。

 しかし、紫乃にとっては家族の言葉でしかない。親の威厳こそあれ、良好な家族関係であれば数分くらいという緩さは生まれるだろう。過保護な父親だ。紫乃に危機がなければ、この程度であれば看過するだろう。

 だが、こちらはそういうわけにはいかない。主からの処分という形で受けているのだ。紫乃を許すわけにもいかないし、外に出て掴まえるわけにもいかない。睨むように見下ろす紫乃は、月夜の下でへにょりと眉を下げていた。内省はあるらしい。


「怒られるぞ」

「……蓮司は大変なんでしょ?」


 タイミングを計ったような言葉だ。虚を突かれて、怒りが希釈された。渋味のほうが上回ってくる。


「どこから聞いたんだ」

「結月が蓮司にはどんな処分が与えられたのか聞きました」

「粘ったんだな」


 今日までやって来なかった。その前に復調しているのは知っている。この時間差は、結月さんが紫乃への伝達を渋った結果だろう。

 紫乃は考えなしな部分があるが、馬鹿ではないのだ。自分の軽率な行動で俺が処分を受けることに責任を感じないほどではない。むしろ、人の心情を察するのは得意なほうだろう。

 だからこそ、結月さんは紫乃に俺の状況を伝えようとは思わなかったはずだ。陥落したのは、紫乃が粘り勝ちしたのだろう。


「だって、会えないのは悲しいですし、謝罪も何もしていませんし、状況を知りたいと思うのは何も変ではないでしょう」

「謝罪なら道中に受け取っている」

「そのときには処罰を含めたものではありませんでした」


 責任感はあるし、律儀だ。こうして会いに来たのも、会いたいという安直な発想だけではないのだろう。

 罪悪感に耐えかねたのか。たとえ自分を楽にするためであっても、行動力は責められたことではない。社会人としては責めなければならないのだが。


「申し訳ありませんでした。わたくしのせいで、蓮司を離職の危機に晒してしまいました。軽率な行動でした」


 紫乃は常日頃から礼儀正しい言葉遣いだ。だから、殊更に改まっているつもりはないのだろう。だが、十四歳の少女が使うには、十分に改まった謝罪だ。

 小さな身体を丸めて零す。夜の影が落ちる立ち姿は、寂寥感を漂わせていた。反省の色が濃い。これを前にして、叱責することもできそうになかった。

 これは、紫乃への温情も多いだろう。ほだされている自覚は大いにある。恐らく、紫乃の家族だって、この平身低頭にも近い雰囲気を見せられれば、許容してしまうはずだ。俺だけが甘いわけではない。

 それを盾にして言い訳を組み立てる。

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