第32話

「……帰ろう。秋里さんも急いだほうがいいという判断なのだろう?」

「紫乃に無理をさせることになりますが」

「明日以降でも、それは変わりないだろ? それ以上伸ばすことを考えると、俺の任務の問題が浮上するんだ。こちらもかなり無理をして日程を空けた」

「すみません」

「俺が来たかっただけだ。紫乃のためになることに携わらないのは我慢がならない。まさか、紫乃がついてくるとは思っていなかったが」

「私もそこはイレギュラー過ぎて困惑を隠しきれませんよ。紫乃のせいにするつもりもありませんが」


 自分の説得力不足だ。もちろん、紫乃の楽観視が落ち度ではある。明らかに紫乃の失態で、それを無理やり被るつもりはない。

 だが、紫乃が一人きりで置いていかれること。そうしたものを過剰に忌避していることに気がつけなかったのは、話し合いの不足があるだろう。その点については、同情もするし寄り添う気持ちもあった。一方的に罪をなすりつけることを躊躇うほどには。


「当然だろう。とにかく、今日出発ということで決定だ」

「分かりました。すぐに準備をします」


 山岳地帯を下りてから二キロ。馬車に合流し、町までやってきていた。今日からの移動は、馬車に乗っているだけで済む。

 鉢も既に馬車の保管庫に置いてあった。割ってしまうかもしれないと不安を抱えて移動しなければならない心労がないだけ、ずっとマシだ。紫乃を抱えていることだけに意識を向けていればいい。

 紫乃は復調しきってはいないが、意識は戻っている。今日の予定を伝えると、しっかりと相槌を返してくるほどには、考える体力は戻っているようだった。医者には感謝しかない。


「馬車移動なら、蓮司の膝の上ですね? いつもよりもべったりになってしまうかもしれません」

「構わないよ」

「じゃあ、甘えます」

「ああ」


 間違ってはいないだろう。この場合はお世話になります、と同義だ。しかし、甘えると宣言されると苦笑してしまいそうになる。

 どれだけ理性的で俺への感謝を口にしていたって、将樹様が不快を隠すことはなかった。紫乃だってそれは分かっているだろうが、気にしていないようだ。

 そして、体重を預けっぱなしにしてくる紫乃を抱きかかえ、俺たちは屋敷への帰路を辿った。道中に大きなハプニングはなかったが、紫乃の不調は地続きだ。常に意識を向け、定期的に薬液を与えて、休息を取る。そこに捧げる神経は途方もないものだった。

 俺も将樹様も気を抜ける質ではないし、そんなことをするわけにもいかないし、逃げる気もない。だから、それに対して不満があるわけではなかった。ただ、それによってもたらされる心労がなくなるわけではない。いくら心持ちが固まっていても、現実の疲弊をなくせるものではなかった。

 将樹様は護衛として外への意識もなくすわけにもいかない。俺よりもずっと大変だろう。それでも、疲れた様子を見せることは一切ない。

 徹底した態度は、紫乃に負担を強いないためだろう。兄の矜持であるのかもしれない。俺も気をつけてはいたが、かなり触れ合っている。紫乃にも筒抜けであるし、疲労は隠せるものではなかった。

 とはいえ、紫乃にそれを気遣う余裕はない。気遣わせるつもりもなかったので、背を叩いて落ち着かせた。それで落ち着くとも思えなかったが、紫乃は大人しくするしかなかったようだ。

 そうして、全員が全員各方面に神経を尖らせた旅はどうにか終止符を迎えた。俺たちを血相変えて出迎えた結月さんは可哀想極まりなかった。

 しかし、手際に不安はない。すぐに紫乃を部屋へと運んでいった。医師の到着もすぐだ。

 虚弱な紫乃のために、医師は常に待機させられているようなものだった。専属契約の形を結んでいるらしく、連絡一本で到着する。この辺りは家族でもない俺に事情は伝えられないので、後のことは一任することになった。

 それに、俺の本来の仕事は今から始まる。採集はおまけでしかないのだ。俺は鉢を丁寧に離れへ運び込んで、観察の用意を調えた。

 とはいえ、今すぐ花びらの採集と調剤の研究ができるわけではない。日数が必要であるし、ここもまた長期間を見なければならなかった。

 早速できることには限りがあり、現状では環境を整えるまでしかできない。そのため、日常に舞い戻るだけになる。

 紫乃が完全回復するには、そこから一週間がかかった。その気配りの緊張感だけが、胸のうちに留まっている。

 将樹様はあの後すぐに、騎士団の寮へ戻っていた。後ろ髪は引かれまくっていたそうだが、仕事が詰まっていたらしい。日常に戻ったといえばその通りで、しかし紫乃の調子が戻るまでは気が気ではない日々を送っていたようだ。

 俺は結月さんを通して、将樹様の状況や紫乃の調子を聞く日々だった。そうして、紫乃が回復したその日、俺が訪ねたのは若当主の元だ。

 そもそも、体調が回復したことを伝えてきたのは結月さんではなく、若当主直々だった。呼び出しを受けるのも、任務をこなしたものとして当然だろう。

 応接間に足を運ぶと、若当主が先んじて待っていた。俺は大慌てで、その前へ腰を屈める。着席を促されて、俺は早々に報告書と経過観察を提出した。

 これは、帰宅とともに早急に仕上げて提出するつもりで用意していたものだ。しかし、俺から若当主への連絡筋は確立していない。結月さんからと若当主側から。その二つによるものしかなかったため、向こうからアクションを受けてようやく動けたのだ。

 それを提出すると、若当主は報告書へと目を通す。その若当主の行動は平常通りだった。特に異質でもなければ、安定している。

 しかし、書類をすべて確認し終えて上げた顔には、厳かな雰囲気が漂っていた。何か不足があったか。無意識に背が伸びる。

 頭の中で一度に色々なことを精査したが、当主様が口にしたのは精査が必要ではないとても簡潔なことであった。


「紫乃がお世話になったようだな」

「いえ、そのようなことは」


 紫乃のことも報告されているし、周知されている。隠すことなど到底できないし、耳に入っていることは当然だ。肯定するわけにもいかないため、語尾が先細る。


「多大な迷惑をかけたようだが、一応言っておかなければならないことがある」

「はい」


 峻厳とした若当主の気配に、将樹様の気配が重なった。それは苛烈であり、とても楽観できるものではない。冷気が背筋を這う。


「娘の状況を明確に把握していれば、無理を通すべきではなかったのではないか?」


 それは当然の指摘だ。

 俺と将樹様はともに紫乃のため、という大義名分を掲げていた。それは本心であるし、真実でもある。だが、無茶を通す理由として正答かどうかは絶対的ではない。親に責め立てられれば、俺になす術はなかった。

 そのうえ、主から任務への疑念だ。


「確かに、秋里くんと将樹が紫乃のために行動したことは分かっている。将樹も同意したことであるから、責任をなすりつけるつもりはない。だが、一切の追求をしないわけにはいかないことも考えてくれるか」


 若当主は断言しない。しかし、厳しい顔が崩れることはなかった。

 主として、娘の立場を考えたら、従者の身勝手な行動を流すわけにはいかないのだろう。若当主が本心から俺を追い詰めようと思えば、こんなものではすまない。考えを促すまでもなく、首を切ればいいだけの話だ。

 俺が許されているのは、花の件があるからだろうか。日頃の何かが評価されるほど、資質があるとは思えなかった。紫乃の相手として相性はいいかもしれない。ただし、これは結果論でしかないし、代替えが効かないとは言い切れないものだ。


「……必要なことがあれば、お受け致します」


 小揺るぎもしない若当主から何かを読み取るのは困難極まりない。俺は降参するより他になかった。

 若当主は目元に力を込める。眇める瞳は、見定めるような光が灯っていた。俺はただただその眼差しを受け止める。採集の間、将樹様に散々貫かれた経験がここで生きてくるとは思わなかった。


「一ヶ月の謹慎を受け渡す。離れを出ることのないように。食材だけは送り届けるようにしよう。紫乃にはそちらへ伺わないように申し付けておく」

「……構わないのでしょうか」


 破格の厚遇だ。それはほとんど処罰がないにも等しい。

 拍子抜けの感情が透けていたのだろう。若当主の表情は渋さを増した。既に十分だったのだから、その過激さは度を超えている。


「これは表面上の話ではある」


 表情を見れば、重要な中身があることは明白だった。

 飲み込みそうになる生唾を口内に広げて逃がす。こちらが重々しく慄いているのを見せることすら躊躇うほどの圧力だった。


「一ヶ月の交流禁止は、自宅を抜け出して無茶をした紫乃への罰でもある」

「はい」


 それは俺へ下りてくる罰とは訳が違う。家庭の躾だ。俺が口を出す隙間はない。顎を引いた俺に、若当主は苦い顔になった。自分の娘の行動に思うところがあるのかもしれない。


「そして、秋里くんにも重大な問題がある」

「……はい」


 続きを促すためにも、聞いている意思表示のためにも、相槌を打ってばかりいた。

 若当主は苦さを娘へ対するものから変貌させる。継続していることは、どこまでも冷厳であるということだけだ。


「この一ヶ月の間に、薬の成果を出すように」


 ここまでも緊張感を保っていたはずだった。だが、言われていることの重さが脳髄に達して、身体が固まる。

 一ヶ月。その間に、新しい薬を調剤して成果を出す。その難易度の高さは、天まで到達するようなものだ。とてもじゃないが、易々と請け負っていいものではない。

 同時に、表面上の意味が重石となって肩にのしかかってくる。その重さに丸まりそうになる背筋を気合いで持ちこたえた。


「できなければ、解雇ということになる。悪いが、百合園家の現当主として、娘を危険に晒した従業員を雇っているわけにはいかない。私は当主として判断しなければならない。せめて、一ヶ月他のことに意識を向けずに誘導するまでが私のできる譲歩だ」

「……ありがとう存じます。ご当主様のご配慮に報いることができるよう努めます」

「すまないな」


 力不足を詫びることが本心か。父親として考えれば、もっと刺々しい責め言葉を口にしてもいいところだ。

 俺は首を左右に振り、確かに拝命をした。若当主もそれ以上言葉を重ねることはない。そうして、俺の奮闘の日々が幕を開けた。

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