第31話

「紫乃」


 と繰り返す声は、ピンと張り詰めた糸のようだった。

 顔色も青白く、紫乃と並ぶとその悪さが殊更に目立つ。この場合、顔色が悪いのはどちらも同じだが。はたして、自分はどんな顔をしているのだろう。消えない焦燥感に胸が焦げるようだった。


「将樹様」


 言いながら、薬液を差し出す。紫乃の身体を支えて、試験管を傾けて飲ませるだけの体力すらない。頭は回っているし、手は動かせたが、全身の回復力が追いついていなかった。

 薬液を手にした将樹様は、紫乃を支えて口元へと試験管を運ぶ。紫乃は将樹様の腕の中でぐでんと虚脱していた。口に含めたとして、飲み下せるのかすら怪しい。

 俺はそれを将樹様に任せた。横目に収めずにはいられなかったが、そうして様子を見ながら体力回復薬を思いきり煽る。喉が締まるような勢いで落ちてくる薬液を、零しそうになりながらどうにか飲み下した。

 けほけほと咳き込みながら、調子が戻らないうちに紫乃へと目を戻す。将樹様の持つ試験管の薬液は四分の一しか減っていなかった。


「……紫乃、意識はあるか」


 まだ声帯も元に戻っていない。自分の回復力のなさに愕然とする。薬を飲んだところで速効で元気になるわけでもない。分かっていても、早く効いてくれと心の底から渇望した。

 ここまで一時的に疲弊して、紫乃の日頃のつらさの一端を味わう。それでも、まだ足りないのは明白だ。

 紫乃は将樹様の腕にしだれかかったまま、視線だけをこちらに向けた。薄く開いた隙間から漏れ出る赤は、鈍い色を灯している。燦然と輝く紫乃の生命力が欠如すると、出血の色のように見えてぞっとした。


「飲めそうか?」


 こくんと首が傾いたのは、恐らく頷いたのだろう。一度だけであることを切り取って解釈したが、その返答は盲信していいのかどうか分からない。

 無理しているのか。無理している自覚すらなく、無理であるのか。本当に大丈夫なのか。まるで判別がつかなかった。だが、今は一滴でも多く飲ませなければならない。


「将樹様、もう少し傾けてやってください」

「だが」

「零しても構いませんよ。ダメそうだったら、止めればいいので」

「そんな無茶をさせずとも」

「いけません。少しでも飲ませてください。このままだと紫乃は持ちません。もっと体調を崩します。熱に耐えられるような体力が残っていないでしょう」


 俺だって、好んで不安を煽情したくはなかった。だが、現状報告するのは必要なことだ。将樹様の顔色がますます悪くなって、紙のようになっていく。


「紫乃、少しでも飲んでくれ。後で吐いてもいい」


 紫乃はさっきと同じように顔を傾けるだけだ。それでも、視線が試験管側へと動く。

 俺は将樹様に強く頷いたが、将樹様の手つきは不安だ。もしかすると、こうした服用を手助けしたことはないのかもしれない。結月さんがついているし、ここまでの体調不良となれば医師が看病しているだろう。

 いくら兄と言ったって、将樹様はご子息だ。そうした治療行為に手を出すような立場で介在していないだろう。ようやく回復してきた俺は姿勢を正して、将樹様のそばへ寄った。


「代わります」

「……」


 将樹様は無念そうだ。しかし、今は刻一刻を争う。口論などしている時間は寸刻たりともなく、将樹様はすぐに試験管をこちらへ寄越してくれた。

 紫乃を支えたままでいるのは、せめてもの執着だろうか。それとも、俺の復調を考えての気遣いだろうか。その真偽にこだわることなく、俺は試験管を傾ける。

 紫乃の口元が緩く蠢いて、喉が動いた。どうにか嚥下はできている。それを確かめて、傾きを深めた。口の端から薬液が漏れているが、それでも大部分を飲み込めている。

 強引に決行する俺に、将樹様は疑いの目をせずにはいられないようだ。それでも、言葉にして抗議してくることはなかった。気持ちを隠せないことを責めるつもりはない。

 将樹様の状況を放っておいて、薬液を最後まで飲み干させた。口の端から零れる薬液を拭い取る。紫乃はぐったりとしているが、まだ薄目を開けて俺の動きを見ていた。


「もう眠ってしまっていいぞ」

「でも、いどうを」

「俺が運ぶから、君は寝ていろ」

「……う、ん」


 相槌というよりは脱力だ。かくんと意識を失うかのように、眠りに落ちた。半ば気絶ではないかと思ったが、息はしている。

 紫乃の虚弱さを考えれば、十分過ぎるほどに頑張っていたほうだ。薬を飲み干すまで気力が持ったのは、奇跡的でさえあった。胸を撫で下ろしたが、それは一瞬のことだ。

 俺たちは、まだ山岳地帯を抜けただけだ。馬車へと戻り、そこから隣町の道を進まねばならない。行けるか、と目線を落とした。将樹様の視線も同じように落ちているのが、視界の隅に映る。


「動かしても問題ないのか」

「ここにいて大丈夫でしょうか?」

「今のところは。できれば馬車まで移動できたほうがいいだろう」

「……道筋はついてますか?」


 将樹様は道を選んで進んでいたはずだ。狼から逃れられる道を探していたのかもしれないが、迷子になるような真似はしないだろう。その実力が備わっていることは、もう信じていた。


「ああ。馬車の方向はちゃんと分かっている。移動できそうか?」

「距離はどのくらいありますか?」

「二キロくらいだな」

「眠っているうちに行ってしまいましょう。ゆっくりとしたスピードでお願いします」

「紫乃のことを頼む」

「無論です」


 確認されるまでもないことだ。将樹様も分かりきっているようで、それ以上は何も言わずに歩を進め始めた。その緊迫感は、狼から逃亡するときよりもよっぽど差し迫っていたかもしれない。



 町医者に飛び込んだのは、深夜のことだった。深夜の訪問には迷惑そうな顔をされたが、紫乃の様子を見るにそんな場合ではないことはすぐさま知れたようだ。

 俺たちのようなものでなくとも、駆け込んでくるものはいる。状況が分かれば覚醒してくれる良心的な医師でよかった。こういうものは人柄による。

 安堵しながら、その晩は俺たちも揃って病室にお世話になった。翌朝になっても、紫乃が完調することはなく横になり続けている。

 こちらも久しぶりの疾走で全身筋肉痛だ。これから先も採集するのであれば、身体を鍛えておかなければならないだろう。

 将樹様に不調はないようだ。疲れがすべて抜けたわけではないだろうが、極めて平常通りに振る舞っていた。


「おはよう」

「おはようございます」

「出発はどうする?」

「……不可能ではないですし、できれば早く戻れたほうがいいでしょう。ちゃんと専属の医師に診てもらわなければなりません。ただ、紫乃の体調が第一でしょう」

「どうなんだ」

「移動には耐えられるはずです。医師の診断を受けて投薬しましたから、私が独断で施すよりも的確な治療ができています」

「そうか。秋里さんは薬師でしかなかったな」

「医師となると花学から少し外れてしまいますから。より高度で専門的ですよ。薬師は連携を取っているだけに過ぎません。ただ、薬師個人でもかなりのことができますから、その辺りは曖昧になっている部分でもありますが」

「秋里さんはかなり精通しているほうなんだな」

「まだまだ付け焼き刃に過ぎませんよ。私本人の診断では不安しか残りませんから」

「テキパキしていた。悔しいが秋里さんがいなければ取り返しのつかないことになっていただろう」


 拳を握り込む将樹様は目を伏せている。滲ませる後悔はまざまざと分かった。実質、家族の不調に無力である後悔は、察するにあまり余る。将樹様は今までにも何度もそうした感情に溺れたりしていたのだろうか。


「将樹様がいなければ、そもそも狼にやられていましたよ。私たちが無事なのは将樹様のおかげです」

「……そうか」


 おためごかしとまでは思っていないだろうが、励まされていることは分かるのだろう。将樹様の笑みは苦々しい。そして、将樹様は切り替えるようにふっと息を吐き出した。


「今は予定を確認しよう」


 自分で立て直すことができるメンタルはさすがだろう。騎士として鍛えられている。それとも、シスコンとしてやっていくためには、図太くなれけばやっていけないのだろうか。これは偏見でしかないだろうが。


「今日一日休んで移動するのもひとつですが」

「紫乃の体力的にはどっちのほうが安心できるものだ?」

「正直、半々だと思います。今日休んだとしても、明日に復調できるかどうかは保証できません。現状でも、まったく移動できないわけでもありませんから、無理を通して移動し、屋敷の整った環境で十分な休息を取ることを優先したほうが気は楽かもしれません」


 できる限りフラットな意見を装いたかったが、どうしても自分の意見込みになる。報告や提案としては些か不備があるような気がした。

 しかし、将樹様にとって、そこは重要視するものではないものらしい。考える材料さえ手に入れば、紫乃優先で思考が組み立てられる。今はその性質が大いに役立っていた。

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