第30話

 紫乃を下ろしてから、崖を登る。久しぶりの身動きには、ぎこちなさを隠せない。それでも、無難に登り切り、花の観察をする。

 葉の形を凝視し、触れて確かめた。葉の裏が毛羽立っているのを確認し、ほっと息を吐き出す。


「どうだ?」


 下から聞こえる声は、真面目な響きだった。採集自体が危険であることもあるが、紫乃のための花を採集しているのだ。真剣にもなるだろう。


「求めていた花です。採集します」


 二つ返事で、しかし、焦らずに手元に集中する。

 下から会話しているのが薄ぼんやりと聞こえていたが、聴覚は遠のいていた。花の周りの地面を掘り下げて、根を切らないように抜いていく。それを鉢へと移して土を被せ、へたっていないかどうかを確認した。

 とはいえ、これが成功しているか否かは経過を見なければ分からない。自然を相手にするということはそういうものだ。ひとまず、採集を終えて崖から顔を出す。


「将樹様、鉢を渡しますので、すぐに紫乃に渡して手を空ける形でお願いします」

「分かった」


 将樹様も護衛を中心に組み立てた言い分に疑念を返すような無駄なことはしない。それほどには職務に忠実であるし、経験値もある。

 将樹様に鉢を渡して、その受け渡しを見送る前に崖を下りることにした。一人になる時間はそう作るものではない。ざざっと音を立てながら下りていった。その中に混ざり込んだ雑音に、はっとしたのは俺よりも将樹様のほうが早かっただろう。

 紫乃に鉢が渡ってすぐに、将樹様は剣に手をかけていた。俺も少々の高さを手荒に飛び降りて紫乃を抱きかかえる。自分の反射神経がこれほど当てになるとは知らなかったくらいだ。


「ふぎゃ」


 紫乃が悲鳴を上げていたが、意に介さずに将樹様のそばへと寄る。


「しっかり抱えてくれ」


 将樹様が俺に言いたいことだっただろうが、俺から紫乃に言うほうが早かった。

 鉢を落とされては困る。もちろん、紫乃の身のほうがよっぽど大切だ。それでも、ここで鉢を落として割れでもしても大惨事になる。怪我の意味でも、花の意味でも。


「お前の紫乃を絶対に離すな」


 言いながら、将樹様が剣を抜く。俺は紫乃を抱え直して、身に寄せた。紫乃も俺と同じようにぎゅっと鉢を抱きしめている。場面についてこられているのかは分からない。でも、勢いでも何でも、言葉通りに動いてくれれば上等だ。

 将樹様がざっと剣を振るったところで、木々の狭間から狼が現れた。将樹様には気配が読めているのか。突発的な襲撃だったにもかかわらず、後れを取ることはない。

 騎士としての腕は優秀であると、紫乃からも聞かされていた。だが、ここまで安全にやってきたものだから、その辣腕を見るのは初めてだ。安心の腕前だったが、しかし、だからと言って油断はできない。

 そう神経を尖らせていたが、俺くらいでは限界がある。採集に出向いたことはあるし、周囲に注意を向ける能力はあるほうだろう。しかし、どれだけ尖らせたとしても、経験不足まで補ってくれるわけではない。


「秋里、避けろ!」


 びくんとどうにか飛び退いたと同時に、将樹様の剣が今いた場所に振り下ろされていた。

 狼は群れだったようで、将樹様が切り捨てていた一匹とは別の一匹がそこに倒れている。一匹ではない。そのことに気がつくと、ぐるぐるとした唸り声が周囲にも満ちていることに気がついた。


「秋里さん、俺の背のほうに。駆け抜ける」

「紫乃、鉢をくれ」

「どうするのですか」

「身体に縛る」


 鉢の運び方にはいくつか種類がある。今日は崖下に二人がいたからその道は採らなかったが、身体に縛り付ける方法もあるにはあるのだ。

 俺はそれを選択して、腰の辺りに無理やりにくっつけた。不安定であるし、できれば取りたくはない手段だ。激しく動くには、不安しかない。だが、他の方法はなかった。これ以上、紫乃に持たせたままでいるわけにもいかない。


「くっついて」


 鉢を腰に縛り付ける不格好さを横に、紫乃を抱え直す。紫乃も切迫感を察知したのか。首に縋りつくように抱きついてきた。

 密着しきる体温をじっとりと感じながら、将樹様の背後に張り付く。俺が意識しておかなければならないのは背後か。難しくはあるが、紫乃を守るためにはこの構図しかありえない。紫乃がいなくても、突貫しようと思えば将樹様の背後に着くしかなかっただろうが。

 そこからは、息つく間もない逃亡劇だった。大幅に道を外れ、迂回し、ときに応戦し、逃げ隠れ。忍び寄る狼の影を振り払って、俺たちは山岳地帯を降りた。

 行きは良い良い。マイペースに登ったものを、帰りは脱兎で駆け抜ける。時間を短縮できたと言うのは、よく言い過ぎだ。調子を崩してなお、無理を通したと言ったほうが正しい。

 将樹様の体力に問題はない。常日頃より鍛え抜いている騎士には、不測の範疇をはみ出てはいなかったのだろう。

 しかし、こちらはそうはいかない。庭仕事で重い荷を運ぶことがあったとしても、長時間走り抜ける体力には直結しない。運動にも種類があるのだと思い知らされる。

 そのうえ、いくら軽いとはいえ、紫乃を抱きかかえていた。虚弱な紫乃に、振動を与え過ぎてはならないという気負いもある。当然、狼に捉えられるようなヘマをしてもいけない。

 そんな精神的疲労と体力的疲労のダブルパンチを食らえば、立っていることすら難しくなる。

 将樹様が


「もう大丈夫だ」


 と言った瞬間に、その場に崩れ落ちた。紫乃を押し潰さないだけの残量はあったが、それだけだ。鉢が割れずに済んだのは、ただの幸運でしかなかっただろう。

 空気が足りずに肺が痛い。ぜえぜえと乱れた呼吸が身体の内側から鼓膜を揺らした。ふくらはぎが重く、突っ張っているような弛んでいるような、妙な違和感がだるい。

 紫乃を抱えて力の入っていた腕が痺れていた。地面に着いた手のひらの感覚が鈍く、地に着いた心地がしない。

 しかし、自分の不調にかまけている時間はなかった。じゃっと靴底が地面を擦る音に気がついて目を向けると、そばに下ろした紫乃がぺたんと地面に座り込んだ。

 呼吸こそ乱れていないが、肩が大きく揺れている。力が入っていない。気がついて肩を支えたが、それは身を寄せ合うだけにしかならなかった。

 そうして触れ合った箇所が熱い。こちらだって走り回って体温が上昇している。だが、紫乃のそれは俺の比ではない。ばっと顔を見つめれば、熱を含んだ頬が燃え、緋色の瞳はマグマのように煮立っているかのようだった。


「しの」


 自分では、もっと喫緊の呼びかけのつもりだった。実際には、声は掠れ、とてもじゃないが緊急性に欠ける。

 軟弱さに失望しながら、感覚の薄い指を握り込んで覚醒を促し、鞄へと手を伸ばした。きちんと動く。それでも、ガチャガチャと音を立ててしまったのは、気が急いていたからだ。

 そうして取り出した薬液は、体力回復と酔い止めと解熱薬。これ以上の飲み合わせはさせられない限度の薬液だった。この種類であれば、量を調整して混ぜることもできる。

 すべてを一度に適量摂取させるのは問題があった。紫乃への分量は他の人よりも読めない。それぞれを少量ずつ合わせていく。手の震えは止まらなかった。力を込めて握ることでどうにか誤魔化しは効いたが、筋肉の痙攣が続いている。

 自分を不器用だと思ったことはない。今だけはそんな気分になりながら、慎重に調剤を行った。

 将樹様は大丈夫と言った後も、周囲を警戒していたらしい。俺の調剤が終わるころ、ようやく意識をこちらに向けたようで、視界に影が落ちた。

 紫乃を支えるように膝を突いた姿は、土埃だらけになっている。逃走劇は同じだが、戦闘していた将樹様は俺たちと比べても薄汚れていた。それに注意を払う余裕もないのだろう。

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