第六章

第29話

 子ども体温とはもう言わないのか。とにかく、ほの温かい。それが紫乃の体温だった。

 知らなかったわけじゃない。口に出すと語弊が生まれそうだが、触れ合いは存在していたのだから、知らぬ体温ではなかった。しかし、旅の最中でその実感はより強くなっていく。

 馬車の移動中、紫乃を抱きしめ続けていたし、山岳地帯へ入るときにはずっとおんぶで進んだ。

 将樹様は一度認めたからか。一度きりと言ったのは同衾以外にも適用されているのか。大人しくというには視線がうるさいが、それでも、俺たちの交流に口を出すことはなかった。

 ありがたいことだ。紫乃の体調に思考を割いているときに、余計なことに煩わされたくはない。

 だが、どうにも、責任問題がどんどん大きくなっている気がした。もちろん、自分の責任を投げ出すつもりはない。

 ないのだが、将樹様の思考であると、責任の重さはやっぱり将来にまで波及されているようで落ち着かなかった。とはいえ、そんなところを掘り起こしたところで、何もいいことはない。自分の立場が危うくなるだけだ。

 なので、俺はただひたすら紫乃の相手をすることで、将樹様を意識し過ぎないようにしていた。結果として、紫乃を大切にする姿を将樹様に見せることには成功したようなものだ。

 同時に、紫乃に入れ込んでいることを見せつけてしまったことにもなったが。それでも、他にやりようもない。紫乃から目を離すわけにはいかないのは切実な事実だ。

 町から出発する際に屋敷に手紙を出した。手紙が戻ってくるのを待っている時間もないので、紫乃がいることも一方的に伝えてから出発した。向こうがこの判断にどういう感想を抱いているのか。その不安はあるが、決めてしまった以上足踏みをしているのは時間の無駄だ。

 俺たちは迷いなく道を進んだ。紫乃のケアは怠っていない。おかげで、山岳地帯に突入するまでに紫乃が体調を大幅に崩すことはなかった。

 疲れている様子はあったが、それは日中移動しているのだから当然だ。折り込み済みの疲労でしかないため、崩さなかったと言っても過言ではないだろう。

 俺と将樹様は、よく頑張ったと褒め称えた。ああいうのを猫かわいがりと言うのかもしれない。しかし、紫乃の虚弱さからすれば、その体調管理は十分過ぎるくらいだった。

 俺が手を貸しているとはいえ、自分で自分の調子を見極めているのは紫乃だ。だからこそ、俺たちはしっかり褒め称えた。

 そして、この先が大一番だと紫乃を励ました。山岳地帯を今までのように進めるとは思っていない。それは紫乃だけの要素に限らなかった。

 俺だって、久しぶりの採集だ。山岳地帯の移動には慣れていない。そのうえで、紫乃をおんぶすることになるので、どうしても歩行スピードが落ちる。護衛にしてみれば、目を離さずに済むスピードではあっただろうが。

 将樹様は山岳地帯であろうとも、動きに制限はないようだ。ただ、警戒すべきものは多い。そんなものだから、歩調が環境に適応していたのは幸福だっただろう。


「今日はこのくらいにしておこう。火を焚いて、野営する準備をしなければならない」


 俺だって野営の経験はあるが、そう多くはない。護衛任務として日常的にこなしている将樹様が主導を握っていた。

 頷いて、紫乃を開けた地面に下ろす。ごつごつとした場所へ下ろすと、座り心地が悪くてそのうちに倒れかねない。


「秋里さん、紫乃の警護をお願いしてもいいか?」

「ですが」

「小枝を集める必要があるだろう。少しだけ離れる。といっても、すぐそばを回るだけだ。数分だ」

「手に取れる部分にあるもので十分だと思います」

「一晩中焚かなければならないぞ」


 楽観視に聞こえたのだろう。状況を整えないことは、紫乃への対処を適切に行わないことと同義だ。将樹様の中で発言の処理がどう行われるのか。その感覚も分かってきて、将樹様がきつい顔をする理屈も把握できてきていた。


「ハイビスカスがありますから」


 溶液につけたハイビスカスを保管して運んでいる。採集のために有効利用できるものを運ぶ器具は用意してあった。昔から愛用していて、とても重宝しているものだ。

 そこからハイビスカスを取り出しても、将樹様は疑念の表情を変えなかった。代わりに、紫乃の瞳がきらりと光る。

 道中も花学についてぽつぽつと交わすことがあった。だが、シチュエーションがシチュエーションだ。それほど情熱を持って雑談するほどではなかった。そのテンションが、この道中で初めて表立つ。俺のそばにすり寄ってきた紫乃が、ハイビスカスを覗き込んできた。


「火種にするんですね? 使えるんですか?」

「威力はよく分かっているだろ。小枝があればちゃんと燃え続けるよ。やるか?」


 防護手袋は、紫乃相手だから用意したわけじゃない。自身が扱うときでも使うものだ。それを差し出すと、紫乃は大きく頷いた。


「どういうことだ?」


 置いてけぼりの将樹様が入ってくる。いつもは傍観を貫いているが、今は見過ごせないのだろう。過ごし方に関わることだ。分からぬままに流すわけにはいくまい。

 俺が答えるより先に、紫乃がぐるんと将樹様に向き直る。花学について教えることができるチャンスを逃したくないようだった。


「ハイビスカスは燃えるの」

「花学ということか」

「とっても素晴らしいですよ。お兄様も実際に見れば分かります」

「やってみせるといい」


 花学は聞くよりも見たほうがずっと分かりやすいものだ。促すと、紫乃はこくこくと何度も頷いて、手袋を手にした。

 ハイビスカスを差し出すと、さっと手に取る。あれから何度か花学を体験している紫乃が、躊躇うことはない。くしゃりと捩るように潰して、火種がつく。将樹様が集めていた枯れ葉に落とせば、ぶわりと火が上がった。手間もなく、消えることのない火が煌々と森の木々を照らす。

 紫乃はどうだ、とばかりに胸を張って将樹様を見上げた。将樹様は摩訶不思議な現象に目を瞬いてる。紫乃の反応に遅れたのは初めてのことだった。


「どうですか、お兄様。とっても素晴らしいでしょ」


 黙っていられなかったのだろう。紫乃は喜悦を隠さなかった。将樹様はすぐに我に返る。その反射速度はさすがのものだった。


「ああ。実に役立つな。素晴らしい」

「でしょう。花学は面白いでしょ?」


 認められたことが嬉しいらしい。満悦な紫乃に、将樹様は目を細めて頭を撫でる。珍しく、兄妹としてのまともな交流を見た気がした。

 今までが異質であったとは言わない。だが、将樹様からの感情が強過ぎて釣り合いが取れていなかった。それが釣り合うと、途端に仲のよい兄妹だ。

 微笑ましい姿を見ながら、俺は小枝を足して火を絶やすことのないように調節しておいた。慣れてはいないが、経験はある。その間に二人は兄妹をしていた。

 それからも、紫乃の世話を俺と将樹様で焼いている。俺のほうがいくらか回数が多いのは、日頃からの付き合いの問題だろう。現状では俺のほうが近くにいることが多い。

 将樹様は屋敷を出て生活している。しょっちゅう帰ってきていると聞いていたが、それでも生活習慣が被るとは言えない。

 紫乃は部屋にいることがほとんどだし、寝込んでいたり、眠るのが早かったりする。俺のように数時間を確保して会うことが、帰宅のときに達せているとは思えなかった。

 そうなれば、今紫乃と過ごしている時間が長いのは俺だ。結月さんがこの場にいれば話は別だろうが、新規の慣れで言えば俺は他の誰にも引けを取らない。その影響がもろに出ていた。

 そんな道中を過ごし、そうして運命の日はやってくる。

 探索として割いていた日程の最終日。少し遠い崖上に、その花は一輪で咲いていた。正確には、葉を茂らせていたというべきだろう。

 その花は特定の日にしか花びらを開かない。それ以外でも葉で判別ができるため、採集の時期にはこだわらないと報告していた。

 その特徴あるとげとげとした見た目の葉が、生い茂る草の中で青々と輝いている。他よりも背丈が高いので、目を凝らしていれば見逃すことはない。特徴は紫乃にも将樹様にも道中教えていた。俺が立ち止まったことで、二人も気がついたようだ。


「蓮司」

「ああ、あれがそうだ」

「採れそうか?」

「少し周囲を歩いて様子を見てみましょう」

「わたしも下ります」

「紫乃。無茶をしないと約束したはずだぞ」

「でも、採集は蓮司がするのでしょう?」


 将樹様には説明が必要だった。しかし、紫乃は当然のように言う。そのうえで、状況判断が的確にできていた。正しいことであるし、ありがたい申し出である。最終的には、そうせざるを得ない。だからと言って、即応できるかどうかは別だ。

 俺と将樹様はアイコンタクトを交わして苦さを噛み締めた。


「最終的に下ろすのと、今下ろすのとでは訳が違う」

「でも、上がれるところを調べるのですから、崖に足をかけたりするのでしょう? がくがく揺さぶられるほうがよほど怖いですよ」

「それはそうかもしれないが……」

「だったら、俺に変わるか?」

「それじゃあ、お兄様の腕が塞がるでしょ? 蓮司の護衛なんですから、それはダメだよ」

「護衛が人を抱えるのは危険ですよ」

「でも、それじゃ紫乃はどうするんだ」

「ここを回るときだけなら、わたしだって大丈夫だよ。まったく動けないわけじゃないのは、お兄様も蓮司も知っているでしょ?」


 紫乃は俺たち二人を交互に見上げてくる。健気な顔は、自身の体力を過剰評価しているような気がしてならない。

 確かに、俺たちが必要以上に過保護になっている節もある。その自覚もあるし、最終的な話をすれば、というものではあった。しかし、どうしたって躊躇は生まれる。


「蓮司」


 乞うてくる相手を間違えない。こういうとき、将樹様が譲らないのを知っているのがよく分かった。


「……時々で下ろす。それ以上はダメだ。足元も悪い。紫乃が歩けるとは思えない」

「やっぱり蓮司も過保護です」


 含まれた行間を取り零すことはない。将樹様と比べられているのだろう。今までは、頑として認めたくはなかった。しかし、こうなってくると否定をし続けることは難しい。

 俺はそれでも、意見を翻すことはなかった。紫乃は仕方がないとばかりの顔になる。将樹様を相手にしているときのその顔には、わずかにダメージを受けた。とはいえ、引くわけにはいかないので、紫乃を抱えて移動を続ける。

 納得したらしい紫乃は大人しい。これには、多少信頼がおけなかった。一度反旗を翻してこの場に現れているのだから当然だ。だが、紫乃は反省ができる。

 そして、その通りに紫乃は俺が上げたり下げたりするのに文句もなく従っていた。そうして周囲を一周した俺たちは、上れそうな場所を見つけられた。将樹様は些か不安そうな顔をしていたが、俺だって運動ができないわけではない。

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