第28話

「約束ですよ」

「ああ。紫乃の言う通りにしよう」

「ありがとう存じます」


 すりすりと頬を擦り寄せてくる紫乃の身体を抱きしめる。華奢で壊れてしまいそうな、確かに存在する肉体を確かめるように抱きしめていた。

 黙ってくれていた将樹様には、感謝しかない。腸が煮えくり返っていたとしても、ひとまずは収めてくれていた。そうしたことに気がついたのは、後のことだ。このときの俺は紫乃を抱いているということだけしか考えられていなかった。


「無茶をして、ごめんなさい」

「……ここからどうする?」

「どうするにしても、蓮司に迷惑をかけます」


 一時の威勢が落ち着いてきたのだろう。賢者タイムと呼ばれるような時間に突入し、へこみきっているようだった。


「じゃあ、何を言っても一緒だ。どうしたいか教えてくれ」


 乱暴な言い方をしている自覚はあった。しかし、紫乃の意見を聞くためにはこうするしかない。


「……連れていってください」


 まぁ、確かにそれしかない。ここまで自分の意思で来たのだから、今更引いたりもしないだろう。しかし、予想していた回答だったのはそこまでだ。


「置いていかないで」


 腕の中にいる。至近距離だ。その距離で囁くよりもずっと小さな音として聞こえたのだから、それがどれほど繊細なものか。気がついたときには、その身体を掻き抱いていた。


「悪かったよ。紫乃、君を置いていこうだなんて思ったわけじゃない。帰ると約束しただろう?」

「……はい」

「そばにいるよ、俺は」


 ぐすんと鼻を鳴らした紫乃が、ぎゅうぎゅう抱きついてくる。


「ほら。そんなに泣いてしまったら体力を使う。もう、泣き止んでくれよ。疲れちゃうだろ?」

「止まりません」


 顔を上げた紫乃の目は赤くなっていて、うるうると潤みっぱなしだ。拭っても拭っても、涙はやっぱり止まらない。


「そんなに悲しかったか?」

「蓮司はずっといたじゃありませんか」

「だったら、ちゃんと我が儘を言えば良かったんだ。君のために君を放置するのは本意ではない」

「行かないでくれましたか?」


 瞳を潤ませてとろとろと喋る。これだけ泣いていれば、声も掠れるし呂律も怪しく上手く喋れないこともおかしくはない。紫乃の思惑とは別の生理現象だろう。

 しかし、それは消耗して、自分に甘えてくれているかのような錯覚を引き起こした。自分に都合が良くてチョロい。こんな深い贔屓目を手にするとは予想外甚だしかった。

 だが、悪い気はしていない。いや、満更でもないどころか、紫乃のためにという感情は胸を満たした。

 自己満足であるかもしれない。それでも、紫乃は今自分の胸の中にいる。これは紛れもない現実だ。


「対策を考えたよ」

「……行くんじゃないですか」

「君が無茶をしなくてもいい方法がもっとあったかもしれないだろう」

「……ごめんなさい」

「もういい。分かったから」

「はい」


 こくんと頷いて、紫乃はこちらにもたれかかってくる。その重みはちょうどいい。ただ、全部を任せられていると思われる体重移動は不安になった。

 体力が底を尽きかけているのではないか。このままでは、予定に差し支える。いくら俺が紫乃を抱っこして連れていくとしたって、紫乃の体力の限界は俺たちだけの移動よりも早い。少しでも休ませてあげなければならないだろう。


「疲れただろう? もう休みなさい」

「……ごめんなさい」

「構わないよ」


 謝罪をしたいと言うのなら、断る気もなかった。紫乃優先。すっかり身についた習慣。それもあっただろう。だが、紫乃に落ち度があることも、また事実ではあった。

 だから、謝罪は受け入れる。そのうえで慰めながら、ベッドへと移動した。

 将樹様からの視線がまたぞろ熾烈になっていたが、今更どうしようもない。俺はもう諦めていたし、腹を決めていた。紫乃が俺に頼るのならば、たとえ将樹様が相手であろうとも、応えるべくは応える。

 ベッドへ横たわらせると、布団をかけて具合をよくしてやった。髪の毛を解いて、広げる。紫乃は俺の手に懐いて、離れていこうとしなかった。


「紫乃、おやすみ」

「……」

「ちゃんとここにいるから」


 沈黙を読み取れた自信はない。それどころか、素っ頓狂な返答をしているかもしれない。だが、そう言ったことで、紫乃は素直に俺の腕から離れて、眠る体勢に入った。

 置いていかれる。

 それは、誰も意図したことではない。虚弱な人間を留守番させる。選択しなければならなかったことだ。紫乃を思えばこそ、だろう。ただ、何度も繰り返されれば、寂しさは蓄積される。それは傷になり、じくじくと蝕んで治らない。

 そして、紫乃は賢い。自分のためにその選択をしなければならないことが分かっている。無理を通したところで、自分の身体が無理の利かないものだと分かっている。

 結果として、我が儘を言うことはなく、内に秘めたものは膨らんでいくばかりだ。それが爆発したのが、たまたま今だったのか。それとも、俺が新しい刺激となって衝撃を与えてしまったのか。その真偽は定かではない。

 ただ、今は紫乃の寂しさをわずかでも取り除ければそれでよかった。横たわった紫乃の瞬きの長さが少しずつ長くなっていく。うとうとと閉じられる緋色は、まだ湿っていた。今にも眠ってしまいそうなのに、その瞳は俺を捉えようとしている。


「れんじ……」


 むにゃむにゃと発声の弱い声に呼ばれて、目を眇めた。

 紫乃の中にある自分の大きさなんてものを、ついつい自負してしまいそうになる。縋られている。甘えられている。求められている。花学だけに身を費やしてきた俺の存在が、彼女の役に立っている。

 胸がいっぱいになって、俺は紫乃の手を握った。それを合図にしたかのように、紫乃の身体から力が抜ける。ぱたんと瞼が落ちたと同時に、緩やかな吐息が零れた。

 休ませることができたことに安堵しながらも、手を離すことはできなかった。静けさに感じ入っていられたのは、数分だ。それは俺が音を上げたこともあるだろうが、それよりも将樹様が頃合いを見計らったということのほうが強い。


「秋里さん」


 紫乃を起こさないためだろう。囁くような声音へと目を向けた。

 紫乃の相手中は、見たっていいことはない。そう考えて見ていなかった。見ている余裕がなかったともいう。ようやく視界に収めた将樹様は、憤怒の表情になっていた。ひゅっと喉が鳴りそうになる。


「言ったからには責任を持つように」

「は、はい」


 本当はどの辺りの責任についてか。将樹様がどこまでの何を想像して言っているのか。詰めるべきだっただろう。何より誤解されていてはたまらない。しかし、将樹様が滲み出す切迫感に探りを入れる勇気はなかった。


「いいな! 紫乃がお前に慣れているから許すだけに過ぎない。悲しい思いをさせたら即刻叩き出すからな。口先だけでないことは結月にも伝えて見張ってもらうぞ」

「口先だけの約束のつもりはありません」


 将樹様の顔色を見れば、この妥協が相当な妥協だと分かる。だから、というわけではない。紫乃を思っていることも、思ったうえで契ったものを捨てる気がないことも本気だ。

 はっきりと告げると、将樹様はぎりぎりと歯ぎしりをしていた。


「言った言葉は守りますよ」


 責任を取れます、と言えなかったのは将樹様の重圧にどこまでが含まれているか分からないからだ。

 将樹様の重さを考えると、将来の約束まで持ち出されそうな気がした。それはいいか悪いかというわけではなく、年齢的にマズいし、独断ではどうにもならない。将来のことは将来にしか考えられそうになかった。

 その思想がどれほど紫乃を胸にしまいこんでいるのか。俺はまったく気がついていなかった。


「じゃあ、明日からは紫乃を連れての旅になるってことだな? 俺は紫乃のほうにより一層力を入れることになるかもしれない。もちろん、お前のことを蔑ろにするつもりはない」

「それで構いません。俺が紫乃を連れて動きますから、将樹様は紫乃を守るように動いてくださって構いません」

「重ねて言うが、お前を見捨てることは絶対にない。いいな。そのつもりで、紫乃のことを優先的に考えろと言っている。俺は秋里さんの護衛だ。それでも紫乃も守れるように動かせてくれ」

「もちろんです」


 俺に対して、好印象はないだろう。それでも、任務に私情を持ち込むことはない。真剣な瞳が真っ直ぐにこちらを見据えていた。

 紫乃のことを守ろうという意見は一致している。俺は深く強く頷いた。将樹様はそれを確認して顎を引く。それから、小さく息を吐き出した。


「……紫乃のことをよろしく頼む」

「……俺のできる範囲で必ず」


 大言壮語はできない。無責任に宣言するつもりはなかった。それは誠実であろうという決意とともに、将樹様に嘘をつけないということもある。大言を口にして失策すれば、命すら危うい。それほどの圧迫感があるのだ。

 それでも、真摯に述べた口上は、将樹様のお眼鏡にかなったらしい。


「それじゃあ、俺たちも休もう」

「はい」

「……今日だけは許すから、そのまま紫乃を頼む」

「は?」


 思わず漏らした俺を、将樹様は強い視線で貫いた。


「その状態を解除するわけにはいかないだろう。紫乃は甘えている」

「いや、しかし……」


 妹のようにしか思っていない。しかし、紫乃は十四歳だ。仮に妹であったとしても、もう一緒に寝るような年齢ではない。

 目が泳いだ俺を、将樹様はじっと見つめてくる。何も言わない。これは下手に断ると、性的に見ているのかとありもしない罪をなすりつけられかねない。

 それを感じた俺は、息を整えた。紫乃と離れがたい気持ちは確かにある。兄が許すというのだ。不埒な思いは更々ない。これで御託を並べて揉めるのは不毛な気がしてしまった。諦めたような。覚悟を決めたような。そんな気持ちで紫乃を見下ろす。


「分かりました」

「今日だけだからな!」


 二度目のそれはやけくそで、将樹様は剣を抱きかかえたままベッドに潜り込んだ。

 俺は苦笑いするしかない。そうして、こちらもやけくそな気持ちで紫乃の隣に並ぶように滑り込んだ。紫乃の体温がそばにある。

 やけくそではあったが、宣誓したことは腹の底に錨となって深く沈んでいった。

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