第27話

「だからね、蓮司は色々させてくれるの。嬉しい。あれもダメこれもダメって言いませんから」


 会話の流れでしれっと言われた言葉に、がつんと頭を殴られた。

 隣を見ると、紫乃ははにかんでいる。可愛いというよりも綺麗。そうした顔で零される贔屓は、今まで以上に破壊力があった。

 そして、将樹様にも思うところがあるようだ。細められた目が、緩く伏せられた。

 あれもダメ。これもダメ。

 俺だって、言わないわけじゃない。窘めていることだって多いはずだ。だから、言わないと言い切るのは語弊がある。しかし、それでも他に比べれば俺は緩いのだ。

 将樹様の態度を見る限り、家族は紫乃を守ることに意識を振ってきている。それが悪いことだとは思わない。今よりも虚弱だったのならば、今以上に精神を尖らせていなければならなかっただろう。

 いつ死んでしまうかも分からないデリケートな存在だ。過保護になるのもようよう分かった。俺だって、紫乃が前向きに取り組むことが花学でなかったら、守る方向に舵を切っていたかもしれない。

 花学のことならば、自分の領域だ。その領域でならば、負える責任があったというだけだった。だから、それほど聖人君子のように紫乃に関わっていたわけではない。こうして持ち上げられてしまうと、過大評価のような気がしてしまう。

 将樹様が苦い顔で紫乃に笑いかけた。


「楽しいか?」

「うん。毎日、とても楽しいですよ。お兄様が忙しくなってから、ずっと一緒にいて話を聞いてくれる方もいなかったから。結月は別でしょう?」

「秋里さんも本来は結月と同じ立場なんだけどな」

「蓮司は特別ですよ」

「……そうか」


 将樹様の苛烈さが希釈されるわけではない。ただし、強く出ることもできない魔法の言葉であったようだ。そもそも、紫乃優先であるから、意見に反駁することはなかったが。


「大切にしているんだな」

「蓮司も大切にしてくれています。今日もお薬をくれましたよ」


 こう言うと、互いに相手を大切にしている。それこそ、特別という席に相手を座らせていることが際立つ。

 間違ってはいない。だが、そこに色気などを見てしまうのは、年相応の思考なのだろうか。そして、恐らく将樹様も思考回路は俺と変わらない。

 いくら紫乃が幼いと言っても、純粋だと言っても、考えてしまうことは避けられないのだろう。将樹様が神経過敏になる原因には、紫乃の言動も絡んでいるような気もした。


「そうだな。秋里さんがいたことは幸福だった。だからって、紫乃は無茶をしていいわけではないんだぞ?」


 将樹様の口から注意が出たのは、ようやくとも言える。だが、これは時期を見計らっていたに過ぎないのだろう。将樹様の表情は、紫乃相手にしては厳格なものになっていた。


「……はい」

「ここまでついてきて、どうするつもりだったんだ? 自分がどこまでついていけると思っていた? この先も大丈夫だと思っていたのか?」


 さすがに、心配すべきところがよく分かっている。

 紫乃は唇を引き結んだ。将樹様もぐっと唇を結んで、紫乃を見下ろしている。あっさりと許すかと思いきや、その手厳しさくらいは持ち合わせていたようだ。無言の攻防が続いて、紫乃の顔が俯いた。泣き出すようなことはなかったが、悄然となっている。

 はぁと息が零れたのは、俺のほうだった。紫乃は俯いたままだったが、将樹様の目線がこちらを捉える。


「紫乃、このままってわけにはいかにことは分かっていただろう? バレないなんてことは不可能だ。どうするつもりだったのか言いなさい。採集がしたかったのか?」


 俺は根本的に紫乃を叱り飛ばしたことはない。今日、紫乃を引っ張り出したときが、一番強く当たったくらいだろう。

 それと同じような態度を取れば、紫乃はぴくりと肩を揺らして顔を持ち上げてきた。眉尻が下がっているし、反省はしているようだ。しかし、口は開かない。頑迷になっているようだった。


「……君が山岳地帯まで入るのは無理だ。そういう話はしたよな? 俺は紫乃を説得したつもりだったけど、違ったか? 体調が大切だと話をしただろう」


 こうなった紫乃に言い聞かせようと思ったら、視線を合わせることが身についている。俺は椅子から降りて膝をつくと、紫乃の肩を掴んで目を合わせた。

 こちらも窘めることが身についているのだから、紫乃だって俺が真剣な会話をしているときだと認識が育っている。だんまりで済まないことは、元より分かっていたのだろうが。


「……お兄様もいますから、大丈夫かと」

「目論見が甘い」

「ですけど、採集なんて、お出かけなんて、待ってたら、わたしが行けるようになるときがくるのなんて、いつか分からないじゃないですか」

「約束したはずだが? 信頼していないのか」


 思わず、低い声が出る。紫乃の顔も比べものにならないほどに、ぐしゃりと歪んだ。

 泣かせようなんて思わないし、紫乃が簡単に泣くとは思っていない。紫乃は虚弱ではあるが、メンタルは弱くはなかった。しかし、今ばかりは泣き出しそうになっている。

 そうして、無言の攻防を終えた末、紫乃の瞳から涙がぽろりと零れ落ちた。感情の起伏で涙が零れる人はいる。だから、これを泣いて解決しようとしているなんて言うつもりはない。

 だが、驚きは隠せなかった。


「紫乃……」

「わたしは、わたしを、信頼していません」

「どういうことだ」

「健康になんて、そんな簡単になれません」


 ぽろぽろと零れる涙に比例するように、瞬きを繰り返す。さも当然とばかりに言うその本音の苦悩は、途方もないものだった。

 すぐに反応したのは将樹様で、


「紫乃」


 と俺の手を払って、その小さな身体を抱きしめる。背を撫でて慰める手つきは、慣れきっていた。


「大丈夫だ。それほど深刻にならずともよい。前よりずっと元気になったじゃないか」


 おためごかしを言っているわけではない。将樹様のそれは本心であり、事実であろう。だが、へこんでいる紫乃には届かない。

 ふるふると首を振り続ける紫乃に、将樹様は根気強く背を撫でていた。しかし、紫乃の涙が止まることはなく、嗚咽を漏らしている。紫乃、と何度も呼びかける将樹様のかけ声も、無意味な鳴き声でしかない。

 拳を握り締める。紫乃は簡単に頷いたはずだ。約束だ、と。それがどれほど重いものだったのか。自分の覚悟のなさが嫌になる。

 昨日今日のことじゃない。そんなものは節々で感じていた。体感だってしている。それだというのに、このざまだ。感情的に訴えかけられて、ようやくまごつく。体感だなんて、本当はしていなかったというより他にない。

 寄り添い合う兄妹を見つめることしかできない無力感は凄まじかった。

 それでも、このままってわけにはいかない。覚悟がなかったのならば、覚悟を決めるしかなかった。握り締めた拳を締め直す。

 将樹様が抱きしめている以上、俺が紫乃に手を出すわけにはいかない。どうにか感情を絞り出した。


「紫乃」


 ゆっくりと発音したつもりだ。どれくらいそれを演出できたのか分からない。

 紫乃は泣くのを止めることはなかったが、将樹様の腕の中から俺のほうへと視線を向けた。将樹様は、軽く紫乃から身を離す。

 どれだけ言っても、ここで俺が頓狂なことをしでかすとは思っていないらしい。道中の信頼か。紫乃の意見が優先されているのか。その判断はつかないが、警戒されないだけいいのだろう。

 将樹様だって、場面を読まないほど暴君ではないようだ。


「……大丈夫だ」


 なんと力のない言葉だろう。紫乃の表情が晴れるわけもない。

 だが、前置きは必要だったのだ。きっと、誰も伝えていない。その経緯を口に出すために、俺は大きく息を吸い込んだ。


「君の体力を持たせられる薬になる花を採集しに行くんだ」


 空気に確かな間が走った。その間が、紫乃が理解するまでの時間だったのだろう。辿り着いたと同時に大きく開かれた瞳は濡れてこそいたが、涙は止まったようだった。


「薬のため?」

「ああ。君が元気になるためだ。採集に向けて準備していたのを君はよく知っているだろう。だから、大丈夫だ」


 強く言い切る。

 絶対なんてない。そんなことは紫乃だって将樹様だって、俺だって分かりきっている。それでも、ここで悲観的になる理由にはならない。嘘ではないのだから、胸を張ったっていいはずだ。

 紫乃はぱちくりと目を瞬いて俺を注視していた。


「君が少しでも健康になるために俺は採集に行く。だから、なれないなんて言わないでくれ。君が諦めることはひとつもない」

「でも、」

「花学はこれからの学術だ。紫乃、君はそれをよく分かっているだろう。俺に負けないほど貪欲な紫乃なら、俺の言っている可能性がどれほどのものか。希望が持てないことではないと、そう思えないか」


 結局のところ、追い縋るような言いざまだ。信じて欲しいと。そう言っているだけに過ぎない。

 紫乃はそろそろと俺に向かって手を差し伸べてきた。その手を取る。小さな手だ。けれど、ほの温かくて生きている。それをぎゅっと握り締める。細くて折れそうでも、それでもそんなに簡単に折れたりはしない。


「蓮司は約束してくれました」

「ああ」

「……どれだけかかるか分かりませんよ」

「俺から離れるつもりはない」


 口にして、その響きの意味深さを自覚した。だからと言って、取り消せるものではないし、取り消すつもりもない。

 たとえ将樹様から荒々しい視線を受けようとも、紫乃が最優先だ。俺も将樹様のことをどうこう言えた義理ではない。


「本当?」


 その確認は、約束するときにいつも繰り返される。

 もしかすると、紫乃は約束したことを体調でふいにしたことが数多くあるのかもしれない。だからこそ、確認せずにはいられないのではないだろうか。邪推でも邪念でも何でもいい。それに気がついたことで、取り零すものがないのなら上々だ。


「本当だ。きっと君が健康になるまでそばにいよう。ガーデンにも採集にも、君が望むことに付き合うと約束する」


 紫乃が瞳を細める。それから、将樹様の腕の中から、もう一方の腕もこちらへ伸ばしてきた。答えるように伸ばすと、抱きつこうとしてくる。

 いいものか、と迷ったのは一瞬だ。それは、将樹様が確かに場所を譲ってくれたこともあるだろう。抱え上げてやると、紫乃はきゅっと胸元に縋りついてきた。とんと背を叩いたのは、将樹様の仕草を見ていたからだ。

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