第26話

「紫乃。身体がだるかったりするか? 必要以上に頭はぼーっとしてないか?」


 そばに寄って声をかけると、紫乃の顔が緩慢にこちらへ向く。ぱちぱちと瞬きを続けている様子を見るに、未だに頭は夢の中に取り残されているのかもしれない。

 それからしばしの間を置いて、紫乃は頷いて微笑んだ。


「大丈夫ですよ。ちょっと寝起きが悪かっただけです」

「寝心地が悪かったか?」

「そんなことありません。蓮司は抱くの上手いですから」

「誤解を招くような言い方はやめてくれ」


 将樹様も曲解しやしないだろうが、印象はよくない。

 紫乃はさっぱり分からないとばかりに首を傾げている。不埒さはない。言葉通りの感想なのだろう。


「俺はそこまで上手くないよ」


 この返答もおかしいな? と俯瞰的な視点もあったが、否定はしておかなければならない。言葉通りだとしても、認める実力があるとは思えなかった。これ以上、将樹様からのヘイトを集めたくはない。今更何をどうしたって、なくなったりはしないだろうが。


「でも、ちっとも不具合はなかったですよ。ぐっすり寝てたから、ぼーっとしちゃったくらいですから」

「それなら、良かった。熱もちゃんと引いたか?」


 多少は、将樹様の目が気になった。だが、優先事項は将樹様だって同様のはずだ。

 俺は意を決して、紫乃の額へと手のひらを押し当てた。白い肌に抱く印象そのままの体温がする。ほの温かい人肌だ。ほっと息を吐いた俺に、将樹様も肩の力を抜くのが見えた。


「引いたと思います。重さもありません」

「ご飯は食べられそうか? この先のことを話し合いたい」

「……はい」


 鈍い返答は、食欲の有無にかかっているのか。自分の立場が危ういことへの自覚にかかっているのか。どちらかは読めなかったが、肯定ではあるのだから構わない。


「テーブルに移動できるか?」

「果物だけなどではないのですから、お行儀の悪い真似はしませんよ」

「分かったよ」


 頷いて、紫乃の脇の下に手のひらを差し入れて抱き上げた。そのままテーブル席へと移動させる。

 将樹様が俺のことに無言を貫いているのは、ひとえに紫乃が大人しく従っているからだろう。そうでなければ、引き剥がされて捕縛されていてもおかしくない。それほど過激な視線が突き刺さっている。みしみしという音が一体何を持って鳴っているのかは怖くて確認する気にはなれなかった。

 それでも、紫乃を最優先にすることが守られている。他の理由など必要なく、自分の感情すらも二の次にできるものらしい。ここまで徹底されていると、辟易よりも感服のほうが強くなる。そう思えたところで、気が楽にはなったりしないが。

 紫乃を座らせると、正面に将樹様が腰を下ろした。またぞろ、自分の立ち位置を見失う。いくら護衛としてついてくれていると言っても、元来なら将樹様は主と呼ぶであろう一人だ。

 こうして分離されてしまうと、どちらかに偏りづらい。何より、自己意志で紫乃のほうにつこうものなら、面倒くさいのは火を見るより明らかだ。

 俺のそうした葛藤を見破ったのか。紫乃がこちらを一瞥してから、隣へと目を向ける。将樹様とは違い、些細なアイコンタクトでも通じるほどには付き合いがあった。

 そして、紫乃は抜かりなく言葉も口にする。


「蓮司、隣に」

「……ああ」


 将樹様の隣を勧められたって困るし、紫乃の隣を選ぶことにはなっただろう。だから、この案内に不具合はなくて、俺は紫乃の案内の通りに席に着いた。

 ただ、やっぱり気まずさは拭えない。どうしたって拭えないものだと頭では理解しているが、感じずにはいられなかった。だからと言って、払拭できる劇的な解決方法はどこにもないのだから、仕方のないことだけれど。

 そうした気まずい団欒につくと、挨拶して食事を始めた。紫乃の手つきは、のろいが確かだ。食欲はちゃんとあるらしい。そのことを横目に、俺も手を動かした。

 気まずさを薄めるためには、今あることに集中するだけだ。俺は今までだって、そうして周囲の雑音を除外してきた。残念ながら、将樹様を有象無象のごとく切り捨てるわけにはいかないが、応急処置としては使える手法だろう。

 ただし、万全とはいかないのが現実だ。


「紫乃はすっかり秋里さんに懐いたのだな。そいつのベッドに横になっても不快感はないほどだったようだし、いつからそんなに仲良くなっていた? 秋里さんが来たのは、そう以前のことではないだろう?」


 口調は平板だった。しかし、内容は詰問とさして変わりがない。俺が相手であれば、もっときつい尋問の様相を呈していただろう。

 相手が紫乃であるから、雑談として成立しているに過ぎない。


「蓮司は花学についてとっても詳しいから、いっぱい話し相手になってくれます。お兄様とは話せないことを話せる相手は今までずっと一緒にいてくれませんでしたから、蓮司はとても貴重な人材です」


 いつもより、いくらか業務的な言い方をしている。紫乃は俺と話すときは、もう少し砕けた単語を使っていた。

 同じく上流階級のものであるから、兄であっても畏まっている。一瞬そう考えたが、すぐに考え直した。兄であるからというよりは、シスコンであるから。少しでも、俺との関係が業務的に感じられるよう言葉を整えてくれているのだろう。

 そちらのほうが、可能性は高そうだった。


「楽しいか?」

「はい。とても楽しいよ。蓮司は賢い」

「賢いのは紫乃のほうですよ。俺はただ学んだことを伝えているだけに過ぎませんから、紫乃の賢さに比べたらさしたるものではありません」


 将樹様が混ざった会話になる。ここまで、紫乃単独を相手にしていたために気がつかなかったが、こうなると中途半端な言葉遣いになってしまった。

 紫乃は不審そうな顔をしていたが、将樹様は紫乃を褒められたことが重要だったようだ。満足げな顔をしているチョロさには呆れそうになる。しかし、俺にとっては僥倖なので、このまま機嫌良くいてくれるのを願うばかりだ。


「紫乃はよく本を読むからな。俺よりもずっと賢い」

「お兄様だって、学園を首席で卒業しているではありませんか」

「騎士学校だからな。俺は腕力でのし上がったようなものだ。紫乃とは違う。紫乃は賢くて可愛い」

「お兄様はそればかりだよ」


 面倒くさいとはっきり言っていた。紫乃は呆れを隠しもしない。

 にもかかわらず、将樹様はちっとも意に介さなかった。相手してくれるだけで満足だとばかりの表情だ。本当にチョロい。紫乃がいることで大変かと思っていたが、紫乃がいることで楽になることもあるらしい。


「本当だから仕方がない。秋里さんもそう思うだろ?」


 どんな悪魔の問いかけなのか。頷いても納得せず、頷かなければ納得しない。どっちに転がっても終わる。ひくりと引きつった頬に、将樹様の表情が寸秒で渋くなった。

 紫乃が苦笑して唇を尖らせる。


「ダメですよ、お兄様。蓮司を困らせないでください」

「困ることなんかないだろ? 事実を聞いているんだから、答えられない質問じゃない」

「素敵なお嬢様ですよ」


 空々しいというほどではない。だが、よそ行きの感想にはなった。

 他人行儀やお世辞に感じられても仕方がない。ただ、そうしてでも、個人的な好みで零していると印象づけたくはなかった。

 紫乃が可愛いことを否定するつもりは毛頭ない。可愛い少女だ。ただし、それを直截に言えばどうなるかなんて考えるまでもないことだ。それを避けつつも褒めようと思えば、どこか取り繕ったものになるのは避けられなかった。


「そうだろう。紫乃は最高だ」

「はい」


 こうなると、相槌を打つしかない。やむなく顎を引くと、将樹様はやはり鋭い瞳になった。これはもうどうすればいいのか。

 しかし、紫乃がいたことで救われた。


「もうそれはいいですよ。お兄様がわたしを贔屓しているのを知っているんだから、蓮司は頷くしかないでしょ。答えのない質問をしちゃダメだよ、お兄様。蓮司は構ってくれるからそれでいいの」

「紫乃は秋里さんを褒めるのだから、秋里さんが紫乃を褒めるのもおかしくはないだろう?」

「それはお兄様が求めることじゃありませんよ」


 紫乃の正論に、将樹様は言葉を切る。こういったところも、紫乃の意見最優先のようだ。だが、たったそれっぽっちで引いてくれるなら、紫乃だって面倒くさいとは前振りしてきやしない。


「紫乃はそれでいいのか?」

「十分、褒めてもらっていますし、他にも色々とお世話になっていますから」

「色々」


 それは俺たちの交流内容を探ると同時に、意味深な響きが込められていた。少なくとも、俺にはそう聞こえた。

 しかし、紫乃に邪念は備わっていない。純然たる表情で、色々について語り出す。

 それは花学について話す、という先に伝えていたことから始まり、花壇を整えたことや花学を実践したこと。佐野道ガーデンに出かけたこと。どれもこれも楽しかったと、表情を明るくして口を回す。

 思えば、紫乃がこうしてベラベラ話すのを外から見るのは初めてのことだった。紫乃は無口ではないし、どちらかと言えば多弁だろう。

 だが、その会話の相手は俺だ。興味の対象だから言い募る。そう考えることもできたし、談義中にはこちらからも同じくらい話しかけるものだから、紫乃の会話の様子に気を配ったことなどなかった。

 こうしてみると、饒舌だ。将樹様はその紫乃の話に相槌を打って聞いている。俺のときとは違い、茶々を入れることもなければ、表情で邪魔することもない。本当にどこまでも紫乃が大切なのだろう。全面的な受け入れ態勢ができあがっていた。紫乃が嬉しそうに話しているのを、ただただ微笑ましく見守っている。

 そして、紫乃が実体験にここまで歓喜を抱いていたとは思っていなかった。そりゃ、時々の感激は直にぶつけられている。高揚感と興奮具合は知っていた。

 しかし、時間が経ってなお、今もこうして興奮できることだとは思っていない。いや、思い出くらいにはなっている。それは想像できるが、まさかここまでとは思わなかったのだ。

 紫乃は大盤振る舞いで、俺が優しいだのかっこいいだのと、将樹様には面白くない感想すらも零している。悪い気はしないが、ハラハラして仕方がなかった。

 将樹様は実質、面白くないのだろう。目元や口元がひくついていた。紫乃はそれを分かっているのか。いないのか。面倒くさい相手だと認識しているわりに、何が将樹様の神経を逆撫でするかまでは咀嚼できていないのかもしれない。

 この場合、将樹様が法外であるので、紫乃の無理解に難癖をつけるほうが難しいが。

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