第24話

 ぐいっと掴んだのは襟首だ。


「何をやっているんだ、紫乃」


 驚きのほうが強かった。しかし、実際に喉を震わせると随分剣呑なドスとなって響く。自身で思うよりも怒りの割合は高く、紫乃の瞳が一瞬で潤んだ。

 背後で将樹様が度肝を抜かれているのが分かる。それは俺の態度に対するものか。それとも、紫乃の規格外の行動についてか。どちらにしても、状況は最悪に等しい。

 俺は掴んだ首根っこをそのまま力任せに引き寄せて、紫乃を真正面から確保した。


「どういうつもりだ」


 肩を掴んで目線を合わせると、紫乃は目を逸らして拳を握り込んだ。そんな顔をしても、許すつもりは毛頭なかった。

 確かに、ほだされている。紫乃に体験させてやりたいとは思っている。だが、こんな蛮勇を認めるわけにはいかない。許す道理などどこにもなかった。

 衝撃を受けている将樹様に、紫乃を叱責する余裕があるとは思えない。俺だって平常心ではなかった。動揺に心が震えている。それでも、追及しないわけにはいかなかった。


「紫乃」

「……結月には話をしましたよ」

「許可は下りたのか」


 そこで唇を閉ざすのが答えだ。頭が痛い。長く吐き出した息が、馬車の中へと充満する。

 こちらがこんなやり取りをしている間にも、馬車は先へと進んでいた。今更、紫乃を送り返すわけにもいかない。半分以上来ているのだ。このまま次の町へ進み、休まさなければ紫乃が馬車の長旅など持つわけがない。ここまで持っているのも奇跡だ。

 そう考えると、怒りの火が不安に塗り替えられていく。紫乃の顔色を視察した。


「……体調は」


 質問というにはぶっきらぼうになったのは許して欲しい。いくら塗り替えられたといっても、怒りの濃度はいくらか下がっただけに過ぎなかった。平静ではいられない。


「問題ありません」

「本当だろうな。少しでも不調はないのか。ここまで揺れたはずだ」


 ぎろりと睨みつけるように言い聞かせると、紫乃はむっつりと唇を引き結ぶ。何度も見てきた態度を見落とすわけもない。じっと黙って待っていると、紫乃はじきにしおしおと萎れていった。


「……ちょっと、座っているの大変になってきました」

「だろうな」


 だから、物音を立ててしまったのだろう。ここまで揺れに逆らってきたというのなら、本当に奇跡的な好調さだ。

 はぁと吐息を零して、紫乃を抱き上げた。膝の上に乗せるのに迷いはない。体調が最優先であるし、紫乃が俺の膝の上に乗ってくることはあった。経験済みのことに躊躇する理由はない。

 しかし、ここはいつも通りの離れではないのだ。俺たちの間で問題はなかったが、将樹様にしてみれば大問題だったらしい。


「お前は何をやっているんだ! 紫乃、こっちに来なさい」


 真面目にしていれば威厳があるものだから、こうして乱れると残念に思える。だが、今はげんなりする余裕もなかった。預けられた身体が火照っている。


「紫乃、こっちを向け」


 紫乃は俺が体調不良に気付いたことを悟ったのだろう。将樹様のほうへと身を乗り出そうとしたが、腕の中に抱き込んだ。

 隣の将樹様の視線で心臓に穴が開きそうだったが、無視して紫乃の額に手を押し当てる。そうした手つきで、将樹様は察することがあったのか。横から同じように手を伸ばしてきて、紫乃の頬に触れた。

 男二人の手に掴まえられたような状態の紫乃は、逃げようにも逃げられない。その火照りは気のせいではないと確証を得たいのだろう。将樹様はペタペタと何度も頬に触れ直していた。

 俺はすぐに手を離して、腰の鞄を漁る。薬をいくつも持ち歩くのは、紫乃の相手をするようになってから定番になっていた。習慣になっていたことに安堵の息を吐きながら、解熱薬を取り出す。


「紫乃」


 まだ将樹様にペタペタされている紫乃が、俺の呼びかけに答えてこちらを見た。

 俺が手に持つ試験管を見れば、何を促されているのか分かったようだ。紫乃は眉尻を下げたが、必要な対処法である以上、引くつもりはない。


「将樹様、解熱薬ですので」


 いつまでも触られ続けていれば、紫乃は飲むことができない。

 声をかけると、将樹様は紫乃から手を離してくれた。目線が色々とこちらを探ってきていたが、今はそれよりも優先すべきことがある。

 口元へ管を近付けると、紫乃はそれを一気に飲み下した。続いて、もう一本薬液を取り出す。

 それに表情を顰めたのは将樹様だった。


「ちょっと待て。一度にそう何本も飲ませる必要があるのか」

「こちらは睡眠薬です」

「眠る必要はありませんよ?」

「君は熱を下げるための体力がない。眠ってしまったほうがいいよ」

「飲み合わせに問題はないんだな」

「もちろんです」

「紫乃。秋里さんは薬師でもあるのだろう? 信用できるのならば、飲んだほうがいい。紫乃が無理しないことが先決だ。早く町へついて、休まなければならない」

「……分かった」


 兄の言い分には一聴の価値があると認めたのか。それとも、兄が譲らないと分かっているのか。紫乃はこくりと頷いて、睡眠薬を口にした。

 とはいえ、一瞬で寝落ちるものではないので、しばらくはそのままだ。


「紫乃、こっちに来なさい」


 俺の膝に乗ったままなことが気に食わないのだろう。横から将樹様の腕が紫乃を奪取していこうとした。

 俺としては、気が楽なほうがいい。将樹様に睨まれ続けるのはごめんだ。任せるがままに受け入れていたが、紫乃は将樹様の意志に従うことなくこちらへ張り付いてきた。ただでさえ強い視線を保ち続けていたものが遺憾なく貫いてくる。


「紫乃?」

「お兄様のお膝は硬いです」

「だからって、秋里さんに迷惑をかけてはいけない」

「蓮司はわたしの扱いを分かっているし、これくらいは平気だよ」


 紫乃の話し相手になっているときだけ和らぐ視線が、じとりとこちらを一瞥してきた。何度見てもいきり立っていて寒気がする。しかし、紫乃はその変貌を至近距離で見ながらも、意見を変えるつもりはないようだった。


「……どういうことだ?」


 俺が紫乃を見つけて詰問したときも、ドスが利いていたはずだ。我が事ながら、そう聞こえたくらいだった。しかし、将樹様はその響きを優に超えてくる。


「時折、こうして接することはありますから」


 それ以上、弁解することがなかった。ほとんどが紫乃の独断によるもので、俺には理由だって説明できない。将樹様がそんなことで納得するはずもなかった。厳正な瞳を保ったまま、凝視をやめない。


「紫乃、説明を頼む」


 情けないことだろう。だが、俺からは主張がないのだから、ここは行動を主導している人間に質問を明け渡すしかない。

 しかし、紫乃は睡眠薬に落ちたようだ。虚弱ということは、薬の影響力も大きい。本来ならば、もう少し猶予があったはずだが、紫乃相手ではそうもいかなかったようだ。

 あえなく助けを失った俺は、頬を引きつらせる。将樹様は紫乃を一瞥してから、こちらへ視線を戻した。

 一瞥の柔和さなど、一瞬で粉微塵になる。紫乃を揺さぶって起こしてしまいたい衝動に駆られたが、そんなことを実際にできるわけもない。零しそうになったため息をどうにか飲み込んだ。

 眠り込んでしまった紫乃をしかと抱え直して、将樹様に向き直る。物理的にも心理的にも、どうにも逃げられない。


「……紫乃様は」

「紫乃と呼んでいるのだろう。ため口も紫乃が許していると聞いている。気に食わないが、紫乃が許しているものをどうこういうつもりはない。取り繕わずともよいし、俺にもため口で接してくれてもいいぞ」

「そういうわけにはいきません」

「紫乃と立場はそう変わらないが?」


 ともに雇い主の子ども。立場は確かに同じだが、関係値がまるで違っている。紫乃とは初手からため口になっていたが、その辺りは棚に上げた。一応は、教師であるだろうと言い訳を立てられている。どう転んでも言い訳でしかないけど、理由は理由だ。

 一切理由のない将樹様に頷くわけにはいかなかった。苦味を噛み締めた俺に、将樹様は肩を竦める。


「まぁ、俺への態度は今はいい。それよりも、紫乃とはどうしているって?」


 肩を竦める仕草は、軽やかなものだ。表情はそれとは不釣り合いに厳しい。どれほど横道に逸れたとしても、根本を追及するまでやまないだろう。

 町まではまだ道のりがある。その間中……いや、旅の間中が将樹様の持ち時間だ。将樹様の気力が削がれるよりも、俺が音を上げるほうが早いだろう。騎士相手に抗戦する気にはならなかった。


「紫乃と教本を覗き込むこともあります。私たちは視線が違うので、紫乃が見やすさを優先して膝の上に乗ってくることが何度か」


 ともに読む場合は半ば定位置になりかけているが、そこまで馬鹿正直に言うつもりはない。紛れもない保身行動だ。だが、自分の身は自分で守るしかない。


「それでこのざまか。兄よりも優先された気持ちはどうだ?」

「なんてことをおっしゃるんですか。そんなふうに考えていません」

「でも、実際眠ってもそのままなわけだから満更でもないんだろ?」

「将樹様だって、攫っていかないじゃありませんか」

「紫乃がその状態を望んだ以上、仕方がないだろう」


 口では鷹揚なことを言っているが、表情はちっとも仕方がないものではなかった。不服が表情から仕草から、オーラまでも含めて前面に押し出されている。

 俺を相手に取り繕う気もないのだろう。それどころか、不服を訴えようという気概なのだろうけれど。


「懐かれているからと言って調子に乗らないことだな」


 追撃をかけられて、渋面になる。

 別に、兄に勝っているだなんて考えやしない。紫乃にとって俺は新しい知り合いで、希少性が先立っているだけだろう。花学という武器があるから懐かれているだけで、俺がどうこうという話ではないはずだ。情がないとは思っていないが、それで兄と格差をつけられているとは思わない。


「そんなふうに思いませんよ。それよりも、この先どうしますか?」


 強引だっただろう。逃げの一手ではあった。しかし、切実な問題であることもまた事実だ。

 将樹様も瞬時に真っ当な顔つきになり、腕を組んで黙考した。俺も黙って考える。

 胸の中で眠っている紫乃の様子は健やかだ。熱はそれほど高くないし、負担は少ないのだろう。だが、問題は何ひとつ解決はしない。

 ひとまず、町で休ませるのは決定事項とはいえ、その先もこのままというわけにはいかないのだ。一週間の旅に、紫乃が同行できるとは思えなかった。

 ……いや、馬車移動であるから、俺がこうして抱きかかえていればあながち不可能ということもないのかもしれない。完調を貫くことは難しいかもしれないが、強行軍を計画しているわけではないのだ。服用回数は日頃よりも増えるだろうが、不可能ではない。

 ただそれは、不可能ではないというだけに過ぎないし、賛成したいことではなかった。

 ほだされている感情に天秤が傾き始めている。その自分の思考にストップをかけた。妥協に流されてはならない。紫乃の体調が崩れることは十割だ。情にかまけ過ぎずに、冷淡に考えなければならない。

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