第五章
第23話
「お気をつけくださいませ」
離れにやってきて、そう口にしたのは結月さんのほうだった。
紫乃が来られなかったわけじゃない。ただ、予期していたかのようにやってきた将樹様の登場で、わちゃわちゃしただけのことだ。
将樹様は俺を迎えに来てくれただけのようだったが、あまりにもナイスタイミングだった。結果として、紫乃と別れを惜しむのは将樹様のほうになってしまったのだ。俺が入る隙など欠片もない。というよりも、将樹様の威勢に場が支配されてしまっていた。
それがどうにかできるなら、初対面でももう少しまともな会話ができていたはずだ。そんなわけもないため、俺と紫乃の挨拶は有耶無耶になってしまった。
一応
「気をつけて」
と将樹様に告げるときには、紫乃は俺のほうを見ていたが。
ただ、それすらも意味深なやり取りとして、将樹様に目敏く見つけられてしまった。そうして「何だそれは」と詰め寄られる。
面倒くささは十分に分かっていたことだが、直面すればその実感は強いどころではない。厄介極まりないそれから抜け出すためには、それ以上の紫乃とのやり取りを引き上げるしかなかった。
無念さはあったが、今生の別れというわけでもない。無事である実証もないが、将樹様のことを信用している。だからこそ、有耶無耶でも構わなかった。
紫乃もそう思っているのだろう。そう判断して、用意された馬車へ荷物を運び込んでいった。花を十分に保全しようと思えば、それなりの荷物になる。
山岳地帯への移動に、車は使えない。町中を走る車はあるが、それ以外に使われることはなく、今なお馬車が主流の村もある。
その馬車の用意をしている連絡は受けていたため、荷台に甘えて保全のための荷物を整えていた。鉢が入れられる木製のケースは、中身を固定できる頑丈なものだ。それなりの大きさと重さがあるため、馬車がなければ諦めるつもりでいた。これを持って行けるのは幸甚だ。
採集した花を保管して移動するのには、最上級の環境とも言える。もっと上があるなら、それは公的な研究施設の設備となるだろう。この環境を持てることに百合園家に大感謝だ。俺一人では、こうした採集ができることはなかっただろう。
大満足で馬車の準備を終えると、将樹様も荷物を載せてきた。
「紫乃様とのお別れは済んだのですか?」
「ああ。この時間だ。あまり長く立ったまま見送りをさせるわけにはいかないだろう。戻るように伝えたよ」
できれば挨拶しておきたかったところだが、将樹様の言い分は正論だ。昨日、紫乃が早朝に見送りに来ることにすら難を示したのは俺である。紫乃のことを考えれば、仕方のないことだった。
「では、出発しましょう」
「ああ。よろしく頼む」
「よろしくお願い致します」
馬車があれば、行者がいる。これも百合園家の依頼で話を引き受けてくれていた。本当にありがたいことだ。もちろん、これは俺のための補助というよりは、紫乃の改善への期待だろう。
俺と将樹様は、馬車へと乗り込んだ。将樹様は腰に差していた剣を抱えて座っていた。騎士の待機姿勢などに精通などしていないので、何も言わずに対面に腰を下ろす。
ちょうどいい高さにある窓からは、いい具合に景色が見えていた。視界良好だ。将樹様も外を見ている。その姿を横目に、俺も揺れ出した景色に目を向けた。
横たわる沈黙には気まずさがある。だからと言って、俺たちの間に共通の話題など存在しない。心当たりである紫乃の話は見えている地雷だ。そんなものを踏むつもりはなかった。
いや、実質のところ、沈黙を解消する手立てとなるならば考えないこともない。ただ、これは将樹様が良い気持ちにならないだろう。こちらは面倒なだけで、不快にはならない。将樹様は違うだろうから、妙な血圧を上げたいとは思わなかった。
それに、護衛である以上警戒の邪魔になる可能性がある。余計な身動きは取れそうにないので、黙って座っていた。
馬車の乗り心地は悪くない。揺れることは免れないが、それにしたって軽減されているほうだろう。馬車など片手で片付けられる程度にしか乗ったことがない。その中では、とても快適な乗り心地だった。
とはいえ、眠れるほどではないため、景色を見ながら沈黙を保っている他にない。静かな旅路は揺らぎとともに進んでいく。
花の生息地そのものに、直接馬車を乗り付けることはできない。行けるところまで行って、後は将樹様と二人で突入することになる。
馬車までの花の保存は半端になってしまうが、それくらいは仕方がない。旅が終わるまでその状態になるよりは、馬車で保全されるだけマシだ。若当主には、頭が上がらなかった。
この至れり尽くせりな環境に、報いなければならない。紫乃の虚弱を改善させる手助けが少しでもできるように。そんな殊勝な気持ちがここまで強くなろうとは予想外のことだ。何度思ったって、意外性を感じざるを得ない。
研究のために、人付き合いを遠ざけていた。そんな自分が、他人のために研究しようという心持ちがあったとは。
紫乃を特別扱いしていた。
将樹様が俺を警戒しているのは、そうした経緯を第六感で掴んでいるのだろうか。そんな特殊能力を持っていて欲しくないが、シスコンとして目覚めていてもおかしくはない。ぞわりとした。
そんな深層心理やここまでの過程を推測して警戒されるのならば、それが解けることはないだろう。紫乃の心配が、更に実感として襲ってきた。苦い気持ちがこみ上げてきて、それを飲み下す。
いくら俺たちが沈黙を保っているといっても、馬車の揺れる物音がないわけではない。その物音に掻き消された喉音に、胸を撫で下ろした。
もしかすると、気配に気を配っている将樹様は気がついているのかもしれないが、何も言わないために馬車はそのままに進んでいく。
出発日は次の町へ移動するだけだ。それほど距離はないが、これはあくまでも、それほどである。馬車がなければ二日は歩かなければならない道のりだ。
その距離の半分もいかないころ、不穏な物音が馬車内へと響いた。それは外から入ってきたものではなく、内側からのものだ。
将樹様がはっとこちらを見てから、後部の荷物へ視線を向ける。ぎらりとした瞳を追うように、俺もそちらを見た。物音は一度。それ以降、しんと静まり返っている。物音を立ててしまい、慌てて息を潜めているかのようだった。
将樹様はアイコンタクトを交わす。しかし、ここまで会話もなかった相手と、スムーズに成立するわけもない。
俺は手を上げて、様子を見ることを名乗り出た。将樹様が眉を顰めたが、抱えている剣を示す。俺が覗いて、将樹様が対処するほうがいい。その意見はどうやら通ったようだ。将樹様は苦い顔のまま、小さく顎を引いた。
後部側に座っていた将樹様の隣へと忍び足で移動する。隣に寄ることになった俺の肩を、将樹様が叩いてきた。気をつけるように。そう言われていると思ったのは、勘違いではないだろう。
紫乃のことで好まれてはいないだろうが、将樹様は騎士だ。信念もあるだろうし、今に至っては俺の護衛として同行している。その気遣いにひとつ顎を引いて、目線を遮っている荷物を退けるように後部を確認した。
そうして硬直した俺に、将樹様が柄を握る。殺気めいたものに反応できたのは、紫乃のことで絡まれていた余波かもしれない。
面倒事ではあったが無駄にはならなかったことに渋面ひとつで、将樹様に手のひらを見せつけて制止を求める。ボディランゲージが通じるかは賭けだった。しかし、分かりやすいものに反駁するほど、緊急事態に対しての経験値が少なくはなかったようだ。
さすが、騎士。そのことに肩の荷を下ろして、荷物をすべて退けきる。そうして、俺はその物陰に隠れているものに手を伸ばした。
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