第21話

 出発前の談義の後でも、これといった言葉はなかった。気をつけてという身の安全を願う言葉はあったが、それだけだ。最初のようにへこんでいる様子をちらとも見せはしなかった。それにはどこか肩透かしを覚えたが、無難に済むのであればそれに越したことはない。

 俺は帰宅の約束をしてから、紫乃を部屋へと送り届けた。


「これを持って行ってください」


 部屋に辿り着くや、紫乃はいつもよりも素早い動きで手を差し出してきた。その手には、紙が握られている。よくよく見ると押し花のように、紫の薔薇の花びらが一枚閉じ込められていた。


「これは?」

「お守りです。本当はもう少し、安全祈願ができそうな花言葉を持つお花にしたかったのですけど、手に入れることは難しかったので……蓮司にプレゼントしてもらったものから作ったもので申し訳ありませんが」

「紫乃の気持ちがあれば、それだけで十分だよ。ありがとう」

「明日はお見送りさせてくださいね」

「六時には出発するぞ」

「早起きすることはできますよ。少し前に離れへ伺います」

「俺がこちらへ寄るという手もあるが」

「やっぱり、蓮司はすっかり過保護になりました」


 呆れ半分の指摘には、ぐうの音も出ない。まったく自覚がなかったが、お見送りしてもらいに出向くというのは変だ。黙った俺に、紫乃はくつくつと笑っている。口元を覆うほど面白いらしいのが、癪に障った。


「紫乃の体力のなさを染みているだけだ」

「だからって、お見送りくらいはできますよ。今日はきちんと眠りますから、問題ありません」

「分かったよ。待ってる」

「はい」


 からかいの笑みから、喜びの笑みへと変化していく。見送りに来るのがそれほど嬉しいものか。

 見送られる側は、胸が温まるものだ。待ってるなどと嘯くほどには、感じ入るところがある。我ながら、世話を焼いている少女へ対するには、雰囲気がある気がしたくらいだ。


「では、本日はありがとうございました。お休みなさいませ」

「おやすみ」


 いつだって、一日の終わりの挨拶をするには、別れる時間の日は高い。けれども、紫乃が休むための送り届であるから、間違いでもなかった。紫乃がそう挨拶するのだから、となし崩し的に定番の挨拶になっている。

 そうして、俺は出発前夜を迎えた。




 採集道具はそれなりの荷物になる。自身のものもあるが、採集後の花のための備品が多い。

 抜けがないかの最終確認をして、後はもう眠るだけ。紫乃が早く眠ると言っていたように、俺もそうすべきだろう。紫乃にもらったお守りもコートの胸ポケットに忍び込ませた。

 気持ちだけで十分だ。連れて行けるのだから、十二分だろう。そうして、準備万端で寝室に入ろうとしたところで、ノックが鳴った。

 遠慮はしていないが、規則正しくはある。二十一時を回っていた。そこまで遅いとは言わないが、百合園家にやってきてからこんな時間に訪ねてくる人間はいなかった。結月さんの報告があったとしても、夜は避けられている。

 結月さんは二十歳だ。いくらこちらが年下だとしても、大人として男女の発想に繋がるだろう。俺だって、思い違いはしないまでも、ドキリとはする。結月さんがそこまで考えて避けているのかは分からない。だが、合理的だと納得している。

 だからこそ、こんな時間の尋ね人など、まるで心当たりがない。そもそも、ここは百合園家の離れであるのだ。訪ねてくる人は限られている。紫乃ではないことが確定している以上、他の家族しかありえない。

 疑念に緊張感が混ざり合って、びよんと背筋が伸びた。そのまま急ぎ足で扉を開く。しかし、慌てて激しい音を立てぬように。その思考力が働いたのは、他の家族で俺を訪ねてくるものは消去法的に若当主の可能性が高かったからだろう。

 しかし、そこにいたのは、緑色の髪を闇夜に溶かしたかのような気配の薄い将樹様だった。粛然とした態度で扉の前に立ち塞がれて、騎士として息を殺しているかのような身のこなしが恐ろしい。


「将樹様……」

「お邪魔しても構わないだろうか」


 先日見せたような、勢いだらけで紫乃以外に目を向けていない視野狭窄状態ではないようだ。

 そうでなければ好青年ではあるが、あるがゆえに威風堂々としている。百合園家の長男として育てられた気品と、騎士としての逞しさがある立ち姿は凛としていた。立ち居振る舞いを改められると、確かに紫乃の兄なのだと感じさせられる。


「どうぞ。お入りくださいませ」


 紫乃のようだ、と思うと途端に距離感がよく分からない。だが、若当主と同じようなものだ。殊更に改まって、将樹様を招き入れる。

 紫乃は何だかんだいっても少女で、離れであっても違和感はなかった。しかし、成人済みの上流階級の男性となると、ちぐはぐだ。いくら整えられているといえど、不相応だった。

 それでも、椅子を引いて案内する。


「どうなさいましたか?」

「明日の話だ」

「はい」


 ほとんど初対面にも等しい。前回を一回と数えるのは、あまりにも杜撰だ。

 しかし、将樹様は面識があるような態度で淡々と話を切り出してくる。こちらは座っていいのかすらも、戸惑うほどだ。普通なら、許しを得て着席するものだが、ここは離れで自分の領域だった。

 だが、分け与えられているものである。もてなす側として動いていいものかも分からない。紫乃の相手で身につくものがあると思っていたことが、思い込みに過ぎなかったことを思い知らされる。

 もう少し、名家に仕えるものとして恥ずかしくない動きができるように学ばなければならない。花学だけに身を費やしている場合ではないようだ。


「座ってくれ」

「ありがとう存じます」


 出迎えるはずの立場が逆転したようなやり取りはみっともないが、ありがたい。勢いに飲まれるのは先行きが不安だが、ここは将樹様の胸を借りるしかないだろう。

 対面に腰を下ろすと、将樹様は咳払いをした。改めた態度を取られると、こちらまで改まってしまう。元より姿勢を崩しているつもりもなかったが、無意味に何度も整えてしまうものだ。

 正面から見据えられると、瞳の切れ味が際立つ。尋問を受けているわけでもないというのに、肩身が狭かった。


「明日のことで話をしておきたかった。紫乃のための採集と聞いている」

「はい

「俺は花学について詳しくない。報告書では護衛を求められていること以外は、いまいちよく分からないままだ。何か気をつけることはあるのか。そうしたことの擦り合わせをしておきたい。ギリギリになってしまったのは申し訳ない」

「いえ、とんでもありません。こちらこそ、ご配慮いただき光栄です」

「……紫乃のことだからな」


 口調や姿勢が気高い分、威厳すらある。内容だって、まともだ。その論調で紫乃のことをさも当然のように零すのが、余計にシスコンをきらめかせる。

 妹を大切にするのは何も悪いことではない。しかし、何事も度を過ぎれば、というものだ。


「護衛を成し遂げてもらえれば、他には特にないと思いますが……後は、花が咲いている場所によるでしょうか」

「それは採集に際して運動神経が必要だとか、そういう話か」

「そうなります。基本的にその作業を譲るつもりはありませんが、道中頼りにする可能性はありますので」

「作業を担っても構わない」

「構います」


 苦手意識があった。ただ、それは紫乃のことにムキになられる、という一点のみを取り上げてのことだ。他の意見を引っ込める理由にはならないし、自分でも意外なほどに言下に言葉が出た。

 将樹様は驚かれたのか。眉間に皺が寄った。上流階級のものの言葉に重ねるような威勢は、よろしくなかったのかもしれない。

 しかし、将樹様が注目したのは、俺の予想よりもずっと切実なところだったようだ。もしかすると、それはお互いの業務に対する矜持のぶつかり合いだったかもしれない。


「危険行為を見逃すわけにはいかない」

「だからと言って、採集を庭師でもない方に任せるわけにはいきません。採り方を間違えれば、枯れて使い物になりません。研究するつもりがあるのなら、確保は確実性を求められます。薬として使うためには、研究に使う量もそれなりに必要です。仮に育成できるのであれば、一度の採集で済むかもしれませんし、その可能性を費やさないためにも、採集を他人に任せるなど正気の沙汰とは思えません」

 やはり、自分でも意外なほどに主張ができていた。

 花学、ひいては薬学についての熱量が引き上げられていたことを思い知らされる。これはすべて紫乃のおかげだろう。

 談義で花学への熱意を。体調で薬学への興味関心を。

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