第19話
お出かけをきっかけにしてから、紫乃は今までよりもずっと俺に懐いたように思う。
元より、花学というアドバンテージを元に懐かれてはいた。だが、外出したことは紫乃にとって大きな意味があったらしい。そして、それは俺だって同じことだ。
一線を越えた、というとおかしいことになりそうではあるが、何かの境界線を越えたことには間違いなかった。
そうして三週間も経てば、生活は崩れてくる。送り届けるときに手を繋ぐのは自然になったし、紫乃は俺の膝の上に乗ってくることもあった。こうも心を許されると、こっちだって悪い気はしない。
そして、慣れれば普通になる。自分でも不思議なものだ。
俺には後輩すらいたことがない。自分にこんなにも世話焼きの性分があったことにも初めて気がついた。始末に負えない性分な気もしているが、紫乃が馴れ馴れしいのだから考えるだけ無駄だ。
結月さんに窘められることは、稀にある。といっても、これは紫乃のほうへの忠告が強い。
従者となるものに対する線引きは、主たる紫乃が守るべきだ、と。上流階級の教育なのだろう。俺がそれを邪魔するわけにはいかないので、距離を保つべく努力はしていた。
しかし、ほだされ気味であることは、以前からだ。あまり役に立っていない。結月さんも半分諦めているようだ。
そう諦めてくれている理由のひとつには、俺が例の報告書を若当主に提出するのに渡りをつけてもらったこともあるだろう。紫乃の健康を願っているのは、若当主、将樹様は言うまでもない。だが、結月さんだってそこに太いペンで名を連ねるほどには感情がある。
だからこそ、俺の報告書には希望を見出して感謝してくれているらしい。だからと言って、紫乃並みに俺へ感情を砕くということはないけれど。それでも、許容してくれているのだろうとは感じる。
紫乃への苦言を思えば、俺への対応は甘いはずだ。それでも、注意がないわけではない。それは報告書のことがあっても、中和されない分であろう。
どれだけ報告書が優秀でも、若当主たちから色よい反応がなければ無価値に等しい。それに、花についての考察は俺の自己流でしかなかった。精査してもらわなければ、どうしようもならない。
だから、結月さんだって、完全な受け入れ態勢ではないのだろう。もちろん、俺の報告書が有効なものであったとしても、すべてを受け入れてくれるとは思っていない。紫乃との接触に甘くなってくれることはあるかもしれないが。
それを望んでいるわけはない。俺からスキンシップを求めてることなんてあるはずもなかった。しかし、紫乃から慣れが減少していけば、虚しさを覚えるだろう。そう予想することはできて、苦笑いが零れ落ちそうになったくらいだ。
報告書を出してから、そんなことを考えて一週間。俺は若当主に呼び出しを受けた。応接室に入ったのは、初日以降初めてのことだ。
若当主からの話を結月さんが運んできてくれたことはあったが、こうして対面するのは久しぶりだった。いくら紫乃との関わりで上流階級との触れ合いが増えたといっても、若当主となると話が変わってくる。大人と子どもでは、その威圧感は違った。
「このたびはお時間を取って頂きありがとうございます」
「構わないよ。この報告書について話が聞きたかったのは私のほうだからね。これは本当か?」
「本当ですが、確実性や効果のほどが保証されているものではありません」
逃げ腰や保険に聞こえるだろう。しかし、慎重にならなければならないことだ。報告書には事実だけを並べてある。理想論までは詰めなかったが、事実だけでも改善への期待を抱けるはずだ。
若当主は顎に手を当てて、黙考している。不正確であったとしても、一考も二考もする余地があることなのだろう。
俺だって、十分な可能性を抱いていた。だからこそ、報告書も作成したのだ。親ともなれば、可能性に縋りたくなるものだろう。
俺は若当主が判断するまでの時間を無言で待っていた。口出しなどできるわけもない。
それからの時間は、長くはなかった。しかし、その緊張感は並々ならぬものがある。ため息を零したくなるのを飲み込んで、断罪のときを待つかのように固まっていた。
「採集に行くとすれば、どれくらいの日程を予測しているのだ?」
「一度で必ず採集できるとはお約束できかねますが、一度に一週間の期間は頂きたいと考えています。長期での予定がよいかと思われます」
採集に絶対はない。現場に行ってみれば、花が見つからないなんてことはザラだ。一週間を目処に引き上げるというのも、採集としてよくある期間設定だった。
それが職場で許されるかどうかは、若当主の判断にかかっている。
「では、一週間の予定を空けるようにしてくれ」
「よろしいのでしょうか?」
「無論だよ。それが紫乃の体調に直結するのであれば、長期の予定でも構わない。達成して欲しいと願っている。何かこちらから手伝うことはあるかい?」
積極性の根底には紫乃がいた。それで構わない。俺ならできるなんて根拠不明な信頼よりは、ずっと信頼がおける。
「……護衛をつけていただければありがたく思います」
「なら、将樹を連れていくといい」
「将樹様、ですか?」
復唱してしまったのは、威圧的な覚えがあるからだ。どう考えても、俺に良い印象を持っていない。
「何か問題があるのかい?」
「いえ、そのようなことは……ただ、将樹様とは一度挨拶をした程度の面識しかありませんので、ご了承いただけるものでしょうか」
遠慮したいというのが本音だ。
しかし、主に向かって息子を腐すようなことを言えるはずもない。親子でなかったとしても、仕事にも直結する採集の話に私情を挟むわけにはいかないだろう。
かといって、全面的に受け入れるには、ハードルがあった。意見として言える最低限を伝える。しかし、当然ながら俺たちの衝突にも似た邂逅を知らない若当主は、さらりと相槌を寄越した。
「将樹は騎士だ。護衛に文句を言うような精神ではやっていけないだろう」
俺の採集もまた、若当主に認められた時点で仕事だ。将樹様とて、任務であるだろう。そりゃ、文句を言うような騎士はいない。
ましてや、百合園の長男だ。任務を退けるような無作法なことをしでかすとは思えない。それも、若当主直々の任であるのだ。退けやしないだろう。これはもう、将樹様で決定事項だろうと腹を括った。
「それでは、お願い致します」
「了解した。こちらで日程を調整して打診させてもらおう」
「ご当主様のご予定に従います」
雇われているのはこちらだ。紫乃との日程を擦り合わせなければならないかもしれないが、優先事項を間違う気はない。日程を若当主の任せたところで、話はあっけなく終了した。
そして、一週間後に出発すると連絡が来たのはすぐのことだ。花学に傾倒している身からすれば、採集に乗り気なことは一般的である。だが、若当主が汲んだのはそうした意思ではなく、紫乃へ続く道だろう。
期待が重い。とはいえ、望んでいるのは俺だって同じだ。そして、将樹様も同じのようだった。連絡を受け取ってきた結月さんが言うには、将樹様がかなり早めに予定を空けてくれたらしい。
紫乃が最優先される兄の行動力は、騎士団ですら常識として通用していると聞いた。そんなあけすけなシスコンが受け入れられている職場もどうかと思うが、おかげで早く出発できるのだから、文句を言っているわけにもいかない。むしろ、ありがたい。
しかし、それに連なって俺にも新たな仕事が出てきた。もしかすると、これが採集に出るにあたって一番の難関であるかもしれない。
紫乃だ。
花学に関係する物事をしに行く。いくら仕事だとしても、そのために花学談義が一時停止になるのだ。最終的には許容してくれるかもしれないが、万全で受容してくれるとは考えられない。
駄々を捏ねるほど幼稚であるかは微妙なところだ。だが、一言で納得するとは思えない。宥める時間がいることは必定だった。
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