第18話
当日は屋敷の正面玄関集合となった。紫乃は最初、門のところにする予定であったらしいが、そこまで合流を後に回す必要はない。紫乃に無用な移動をさせるつもりはなかった。
集合と同時に、高級車が滑り込んでくる。運転手さんがいるのは常道らしい。二人の日常らしさに比べれば、俺は挙動不審だっただろう。実際に運転手付きの高級車を見ると慄くものだ。
生活環境が整っていることには慣れてきた。しかし、それは屋敷内のことに限る。高級車で見慣れた町を移動しているという事実には、違和感が否めない。
それは、佐野道ガーデンに辿り着いたときにこそ顕著だった。やはり、目立つ。走っている間は一瞬で済むが、止まると特定されるものだ。
自分に不相応な乗り物から降りるのには、居心地が悪かった。紫乃や結月さんはまったく気にしていない。一人だけ不慣れ感満載なこともまた、居心地の悪さを加速させる。とはいえ、降りてしまえばこちらの領分であることも確かだ。
気を取り直して、ガーデンへ目を向ける。ガーデンは繁盛していた。花学が注目されてから、ガーデン自体の環境もよくなっている。それと比例するように、来館者も増えていた。
その中に混ざれば、百合園家のお嬢様といえど、ただの一人の来園者でしかない。車から降りた瞬間を目撃されていなければ、という注釈がつくので、ずっと目にしていたものの視線は飛んできていたが。
しかし、紫乃がそんな目線に頓着するわけもない。それはお嬢様としての慣れとはまったくの無関係だ。
その瞳は、真っ直ぐにガーデンの中に向けられていて、よそに向く気配が一瞬だってない。ここまでの無我夢中さを見れば、他人の目を気にしている余裕はないと気がついた。
その気付きを感じ取られたのか。紫乃がぐりんとこちらを見上げてきた。その威勢の良さに、身が逃げそうになる。嫌ではないし、忌避感があるわけでもない。ただ、気圧されるテンションであることが明白であるから、慄かずにはいられないだけだ。
そして、紫乃はそれを後押しするようにぐいっと俺の手を握ってきた。兄のように扱われているわけでも、懐かれているわけでもない。ぐいぐいと引っ張ってくる力を考えれば、一刻も早く園内に入りたくて仕方がないだけだ。
「早く行きましょう! 熱帯地帯ですよ」
「こら。今日は暑いからダメだ。暑いときはバラ園にするって決めただろうが」
いくら力いっぱい引っ張られたところで、少女に負けることはない。踏ん張って文句をつけると、むむっと顔が顰められた。女の子が外で晒すには不格好な表情になっている。唇までぎゅっと引き結んでムキになっていた。
「紫乃」
暑さは紫乃に大ダメージを与える。普段、気温管理の行き届いたお屋敷内で生活しているのだ。ただでさえ体力がないのだから、暑い中で体調を保持するのは難しい。
事前の計画段階で、もしものときを考えていくつかのプランを用意していた。そういう約束なのだから、こっちだって引くつもりはない。あの日、紫乃は納得していたのだ。遠慮はしない。
強めに名を呼んで、ちょうどよく繋がれていた手を引いた。紫乃は抵抗するように、踏ん張ったらしい。だが、それを持続させるパワーはなかった。すぐに俺の動きに負けて、たたらを踏むかのようにこちら側へ移動する。
「大丈夫だな?」
「……はい」
負担や怪我はないかと尋ねると、紫乃はこくんと頷いた。それは、今日の観賞予定についても含まれていたのだろう。紫乃は観念したように、バラ園のほうへ足を向けた。
「薔薇だって面白いぞ」
「それは分かってますよ? でも、熱帯の気持ちだったんです」
「そんなに見たかったのか?」
「お屋敷でも揃えることは難しいですよね? こうしたガーデンにでも来なければ、見られませんから」
「チャンスは今日だけじゃないさ」
無責任な慰めではあるだろう。
お出かけをもぎ取ったと騒いでいた。紫乃にとっては、お出かけの機会とはそう何度も起こりえるチャンスとは言えない。
もちろん、紫乃の生活がずっとこうであるわけがないはずだ。成長もするだろうし、体調に変化もあるだろう。必ずしも改善すると言い切れないところは虚しい。
だが、手厚く世話をかけられている。俺ごときが気合いを入れただけでも、紫乃のためになりそうな花を見つけられたのだ。若当主が金をかけて、俺よりも優秀な専任の薬師と取り引きをすれば、紫乃の状態を良くできることだろう。
そうなれば、今よりも快適な生活を送れるようになるはずだ。外出についても、同じことだろう。外出時間も日数も増えるはずだ。そうなれば、チャンスはいくらだって巡ってくる。
多少、無責任ではあるかもしれないが、まったくないとも言い切れないことだ。俺にはそれくらいの読みがあったが、紫乃にとってはおためごかしにしか聞こえなかったらしい。すっかり膨れてしまった。
「またそのうちに一緒に来ればいい」
「……本当に?」
「俺はできない約束はしていないだろう」
「でも、こればっかりは蓮司の一存ではできませんよ」
「紫乃が頑張らないとな」
「お父様やお兄様から了承を得ないといけませんよ」
「……分かったよ。紫乃が体調を整えられたら、俺がちゃんと許可を得るようにする」
「本当? 約束ですよ」
キラキラとした瞳で見上げてくる顔は、いつか小指を差し出してきたときと一緒だ。手を繋いでいなければ、今回もそうしてきたことだろう。頷いてやると、紫乃は恒星のような笑顔を浮かべた。何度だって更新してくる輝度には、驚きを隠せない。
そして、後のことが約束されたからか。紫乃はガーデンの様子に意識を切り替えたようだ。バラ園へ向かう道すがらでも見られる花々に目移りしている。
花について尋ねてくる紫乃に、ひとつひとつ丹念に答えていった。途中、結月さんが俺たちを揃って急かしたくらいだ。そうでなければ、道半ばで力尽きていたかもしれない。
テンションが上がっていたのは紫乃だけでなく、俺も一緒だった。百合園家へ勤務し始めてから、初めてのガーデン訪問だったのだ。専門分野であるのだから、ガーデンのラインナップの変化などにも興味が掻き立てられる。それが紫乃のハイテンションとの相乗効果で舞い上がっていた。
結月さんがいなければ、危うく紫乃を倒れさせていたかもしれない。やはり、俺一人ではまだまだ力不足であるのだろう。
もっともっと紫乃の様子を把握できるようにならなければならない。踏み込みたくないなんて言っていられないかもしれない、と腹を決めたのはこのときだった。
結月さん抜きで、なんてことを具体的に考えていたわけじゃない。ただ、いつだって結月さんがついてきてくれるとは限らないのだ。そのときに手落ちなど起こせば、取り返しがつかない。
紫乃の体調を見られるようになりたいという気持ちが確かに沸いていた。それは、もしかすると、今まで漠然としていた庇護欲の発露だったのかもしれない。
それまでも、援助してやりたいと思ってはいた。感謝されたことで、火がついたこともある。ただ、形を掴みかねていた。
でも、こうして出かけてみたことで、本格的に様子を見ていたい気持ちが肥大している。ガーデンにやってきて、こんな変化が起こるとは思っていなかった。
その気持ちに従って、俺はずっと手を繋いで園内を歩いた。紫乃が嫌がらないものだから、俺たちはまるで兄妹のように動いていただろう。
自分が将樹様ほどに過保護になっていたとは思いたくないけれど。けれど、外見だけでいえばそう見えてもおかしくないほどに、俺たちは並んだまま楽しんだ。
結月さんは常に後ろをついてきていた。最初は思うところもあったが、紫乃に気を取られていれば屋敷内と変わらない。そのうちに順応し、時折声をかけられながら、淀みなく園内を回った。
時間としては二時間ほどだっただろう。バラ園だけをゆっくりと回った。紫乃のペースに合わせれば、自然にスローペースになる。そのうえ、ベンチでの休憩を挟んでの観賞だったので、観賞時間が長かったのか短かったのは微妙なところだ。
俺一人であれば、物足りなさを感じたことだろう。だが、紫乃と会話をしながらまったりと回るのは十分に楽しかった。
そうして、お土産として薔薇の鉢植えを買う。紫乃に合わせた紫色の薔薇の鉢に、紫乃が光輝を放っていた。
「本当にいいのですか? 今日はわたしに付き合ってくださったので、こちらから蓮司にプレゼントを渡すべきだと思うのですけど」
「構わないよ。俺のほうが大人なんだから」
「ちゃんと家からのお礼として出しますよ?」
「紫乃が元気で帰ることができればそれで十分だよ」
「蓮司は物欲がありませんね」
「そんなことはないさ」
我が儘を言おうと思えば、いくらだって言える。稀少な薔薇の苗だって欲しいし、研究設備を整えたいという今日に限らない物欲だってあった。だが、いくら報酬だとしても、それを紫乃に求めるのは違うという分別はある。
紫乃は不思議そうにこちらを見つめていた。気にしなくていいとばかりに頭を撫でると、意見を引っ込めてくれたようだ。諦念してしまったのかもしれないし、支払いを終えて運んでもらった薔薇がやってきたことに気を取られたのかもしれない。俺には好都合なので、そのまま話を引っ込めて近くに待機していた車に乗り込んだ。
上流階級のお出かけというのはこういうものか、とよそよそしさは拭えない。しかし、紫乃のことを思えば、これはとても良い環境だろう。箱入り娘でなければ、虚弱な子として生活していくのは、もっとずっと大変だったはずだ。
そして、実に箱入りらしく、車の中も紫乃に合わせて誂えられている。行きしなには、車の高価さに気を取られて内部の小さな部分には気がついていなかった。しかし、帰りしなになれば、その特徴は顕著に映る。
紫乃が横になっても十分に楽に乗っていられるように。そういうふうになっていた。帰り道で座っていられないことを視野に含んでいるのだろう。もしかすると、倒れた紫乃を運ぶためにもこうなっているのかもしれない。
俺はそのシートに横になる紫乃の膝枕となって、帰路を辿った。
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