第四章
第17話
紫乃に感謝されたことがすべての引き金になったわけではない。しかし、以前よりも薬学に関心が持てるようになったことは事実だった。
それまでは、何事においても花学を優先していた。薬師の資格は、庭師になるための余波で入手したものでしかない。知識があったとしても、積極性はなかった。
しかし、紫乃に直接感謝されたことで、薬師の責任感を抱けたような気がする。それまでも、手を抜いていたつもりはない。仕事である以上、責任は果たしていた。
だが、それでも線引きがあったのだ。その線が曖昧になってきていた。踏み越えたとは思えない。逆転なんてことはもってのほかだ。
ただ、その線は薄くなり、いつひとつの塊になってもおかしくはない。それくらいに、身近な存在になり始めていた。元々遠くないのだから、それが近付けばかなり近い位置に配置されることになる。
それは例えば、いつもは花学のためだけに捲っていた図鑑を見る視点に変化が生じたりすることだった。
ぱらぱらと捲っていく最中に、薬への応用に気がついて手を止めることもある。自身でも、そのアンテナが立っているのが意外だった。
苦手なわけではないし、興味が欠片もなければ触れることすらしなかったはずだ。だから、元よりアンテナがなかったわけじゃないのだろう。だが、これほど敏感に薬について気取ることができるとは思ってもみない。
そして、俺は紫乃の不調の原因についても、綿密な診断書のようなものを書いてみていた。正式なものではない。薬師であって医師ではないのだから、独自に症状をメモしているだけに過ぎなかった。これで何かが判明するということもない。俺に診断は無理だ。
ただ、その身体に何の薬が必要なのか。それを考える一助にはなる。独断はできないが、資料として上げることはできるはずだ。
そうして考えていけば、紫乃に足りないのは体力というより他になかった。身体を丈夫にするためには運動を考えるべきだが、紫乃にはそれに耐える体力がない。
だとすると、体力強化の薬があれば問題は解決する。効果は緩くても構わない。わずかでも補強できれば、紫乃の生活は劇的に改善するはずだ。少なくとも、今のような行動の制限はかなり解除できる。
それが叶えば、とそのために図鑑を捲ることもあった。
しかし、解決法が簡単に見つかるわけもない。未熟な薬師が仕事の合間に図鑑を捲るだけで見つけられるほど簡単ならば、立派な薬師が研究に着手しているだろう。
着手、という意味でいえば、しているものはいるのかもしれない。結果が発表されなければ、進行中の研究については詳らかにされるものではなかった。
薬師の繋がりを辿って調べれば、教えてもらえることはあるかもしれない。あちらだって、研究である以上、色々な思索を求めているだろう。
しかし、俺には薬師の繋がりなんてものがない。期待はまったくできなかった。そのため、一人で図鑑を捲るくらいの力しかない。
新しい図鑑を取り寄せたりもしてみた。最新の図鑑は、花と薬草の掲載量も増えている。その記載内容を、目を皿にするように確認した。
それぞれを分解して読むのではなく、調合によって得られる効果を考えながらチェックする。可能性を見つけては付箋をつけて、何度も何度も試行錯誤した。
そうして、ひとつだけ、体力強化に役立ちそうな花を見つけた。その花は、一年に一度しか咲かないものだ。どちらかといえば、薬草としての役割だろう。
それは一部の山岳地帯にしか咲かないらしい。今はハウスで作ることを考えて品種改良をしたり、人工飼育をしたり、そうした考えをすることは多かった。
しかし、その花にはまだ手が伸びていない。だとすると、採集に行くところから始める必要がある。休暇を利用するしかない。とはいえ、住み込みにとって休暇の自由度は不確定だ。
何より、俺には今、紫乃の相手をするという特別業務が与えられている。こちらは紫乃の体調次第で日程が組まれていた。休暇の予定が立てづらい。
それに山岳地帯への採取となれば、事は難しいだろう。俺一人で実行には移せない。護衛を引き連れなければならなかった。そうでなくても、入念な準備は必需だ。どれだけ思い立ったところで、実行には時間がかかる。
長期になるようならば、若当主にも報告しなければならない。むしろ、早めに報告を上げたほうがよいだろうか。
紫乃の体調をどうにかするように、と求められたわけではない。しかし、薬師としての調査によって浮かび上がった可能性だ。医師に話をつけるにしても、若当主を外すことは難しい。
報告書の作成が今できる精いっぱいか。アクティブかどうかは怪しい。それでも、ひとつの目処がついたことで、俺はそれに向けて動き出した。
紫乃は俺の離れにやってきては、蘭の観察をするようになっている。
俺へのプレゼントに違いはない。喜んでもいる。だが、紫乃の態度を見ていると、どうにも育成者としていいように扱われているような気もした。
それに文句はない。文句はないが、一番に蘭へ視線を走らせるのはあからさま過ぎるのでやめて欲しい。
今まで自分に一直線だった分、口惜しさがあるわけではないはずだ。……そんな子どもじみたみみっちい対抗心を花相手に抱いたりはしない。
だが、最初にそうされたときには、肩透かし感は否めなかった。自分が紫乃にほだされていることを、しみじみ実感する。自覚がなかったわけではないが、花学に触れ合ってプレゼントを受け取ったところから、いや増した。
紫乃はそれに気がついているのか。いないのか。マイペースに蘭を見て、俺と花談義して、花学に触れて、花壇の様子を見に行き、部屋へと帰っていく。
俺が紫乃を部屋まで送ることも増えた。紫乃の部屋は白と水色と桃色のパステルな色調で整えられている。優しい雰囲気は、休むのに適したものだろう。一方でその淡い中にいる紫乃は儚い。
それは後付けかもしれないし、相互作用かもしれないけれど。けれど、紫乃が休むために設えられた部屋という印象で、病弱さが補填されているような気がした。
とはいえ、他の誰でもなく紫乃の部屋であるから、当人にとってはリラックスできる空間であるようだ。そうして気を抜いているのが脱力と似通っているから、儚く見えるのかもしれない。
とにかく、プライベートな空間での姿を見ることも増えてきた。ただの花学談義の相手というには、踏み込み過ぎている。業務の一環と呼ぶにも怪しい。その距離に慣れてしまった。
そして、慣れれば疑問も薄れて、日常となる。紫乃が訪ねてくるのは週に一、二度。多くても三度。
すべてが不調による欠席ではない。家庭教師がついて勉強しているらしいし、他にも学ぶべきことはあるという。
上流階級のお嬢様だ。俺が想像するよりもずっと、多くのことがあるだろう。中身には想像力が働かないが、立ち居振る舞いを思うと手厳しさくらいは想像できた。紫乃は既に優雅な振る舞いだ。
だが、大人と子どもではまた違うだろう。結月さんの仕草も見ているから、その差を感じることはできた。
俺だって、ある程度の行儀は身につけている。付け焼き刃であったかもしれない。それでも、一通りはさらった。紫乃はそれ以上を求められるだろう。社交界では失敗も許されない。それを思うと、やはり想像以上だ。
根を詰められない紫乃は、より時間的猶予がないのか。体力的猶予を他人よりも取れるのか。結果として、週に三度は俺のところへ来ることができているのだから、生活に余裕がないわけではないのだろう。
その辺りの詳細へは、首を突っ込んでいなかった。今でも十分にプライベートを割っている。これ以上、自分の領分でないところへ首を突っ込むつもりはなかった。
そう。そんなつもりは欠片もなかったのだ。
離れと部屋への送り届け。自分のテリトリーと言える場所から出るつもりはなかった。手に負えるとも思っていなかった。そんなふうに決めつけていたのがよくなかったのだろうか。そういうときに限って、必要以上が迫ってくるのだ。
「蓮司は明後日、お休みなんですよね? ご予定は決まっておられますか?」
いつもよりも改まったような姿勢で尋ねられて、背筋が伸びる。
休日の予定確認は、紫乃相手でなくたって緊張するものだ。俺は学生時代に友情を育むことをしてこなかった。いつも適当に用件をでっち上げて流していたのだ。そのツケが回ってきたような気がした。
「……特に決まってはないけど」
特に、は決まっていない。
ただ、若当主へ上げるための資料のまとめがまだ済んでいなかった。できれば、早々に仕上げてしまいたい。
紫乃のため、というよりも、自分が採集に行きたいという気持ちが大きかった。学生時代は休日を利用して出かけていたものだ。久方ぶりに、それに臨める。愉快な高揚感が芽生えるほどには、採集は楽しい。その計画にも繋がる資料の作成だった。
特に、とはしないが、できれば、という気持ちはある。
「でしたら、お出かけのお相手をしてくださいませんか?」
やはり、いつもよりも丁寧だ。その申請でもするかのような問いかけに、かすかに頬が引きつる。紫乃ははくりと息を吸って、更に立て板に水で舌を回した。
「街へのお出かけの許可が出たのです。わたしが次に出かけられるのは、どれだけ先になるか分かりません。町の花屋さんに行きたいんです。大きなものがあるのですよね? そこに行ってみたくて、許可をもぎ取ったんです。蓮司が来てくれれば、心強いのですけど……」
早口だった語りが、語尾に行くほどに失速していく。よそへと視線を逃がした紫乃は、そのまま床を見下ろした。気後れしているのが、礼儀正しさに繋がっているらしい。
そして、お出かけの許可などという大層な言葉が入ってくると、蔑ろにもできなかった。そもそも、紫乃の発案を遠ざけようという気があまりない。そんなものだから、蔑ろにできないとなるとほだされる以外の道は残されていなかった。
「町の花屋さんと言ったら、佐野道ガーデンか?」
「はい」
ガーデンの名前を告げると、紫乃の目がこちらを見上げてくる。態度はいつものように威勢がよいものではないが、赤い瞳にはぬらぬらと強い光が灯っていた。
どうしようもなく押さえ込めない興奮の気配に、その肩に手を置く。毎度のように抱き上げて部屋へと送り届けることはないが、触れ合うことに一切の躊躇はなくなっていた。特に、紫乃の興奮度合いについての触れ合いに躊躇なんてものはしていられない。
「佐野道ガーデンはとても広いし、紫乃には難しいんじゃないか」
「だから、区画を決めてそこしか回らないようにしようと思っています」
「……なるほど」
佐野道ガーデンは、環境や種別ごとに区画を設けている。その区画のひとつだけでも、大きなガーデンだ。
花屋さんと紫乃は言ったが、売買もしている植物園というのが正しい。精彩な花壇が設置されている。俺もよく観賞に出向いたものだ。ひとつの区画内なら、紫乃でも無理なく楽しめるだろう。
「ダメでしょうか?」
「……構わないよ」
あっけらかんと答えられてしまったことには、我ながら苦々しい。
紫乃は俺の肯定を聞くや否や、がらりと表情を綻ばせた。肩を押さえていなければ、飛びついてきていたかもしれない。
紫乃は体力不足や虚弱さと無関係に、飛び跳ねたり飛びついたり、そうした運動神経は悪くないのだ。だからこそ、手綱を手放せないというのはある。
「本当に、本当ですか?!」
「明後日だろう? 紫乃の言う通り休みだしな。俺も久しぶりにガーデンを見られるのは悪くない」
「ありがとう存じます!」
抑え込んでいても、その勢いを手のひらに感じた。十四歳の少女と就職した男の力差で、こんなことになるものか。
そりゃ、華奢な紫乃を力の限り抑え込んだりはしない。しかし、それにしたって虚弱な少女に力負けするのではないかとよぎるほどの入れ込み方にはたじろぐ。
「分かったから、落ち着け。興奮し過ぎると、お出かけできなくなるぞ」
拮抗した状態でいたってしょうがない。肩を叩いて宥めると、紫乃はふーっと長い息を吐き出した。そうして気を落ち着ける仕草はよく見る。これが出れば、一時的には気が抜けた。
「結月さんも来られるんですよね?」
気は抜けたが、当日一人でこの手綱を取るのは難しい。即座に感じた俺は、結月さんへ視線を投げた。結月さんは間もなく頷く。さも当然とばかりの動作は、予測できていたことだった。
いくらお出かけの許可が出たといっても、紫乃を一人で町へ出すわけもない。それは紫乃が虚弱であるということだけでなく、十四歳の少女というところもある。ましてやお嬢様だ。誘拐の可能性も高いだろう。
町は安全ではない。だから、保護者がつくのは普遍的なことで、結月さんと俺がいれば十分に盾となり得るだろう。男がいるというのも、牽制として役に立つはずだ。
ただし、結月さんがそれを認めているのかは不明だった。若当主のご意向も含んで、男の存在は認識されていいものか。
百合園家のお嬢様ともなれば、顔が知られていることもあるだろう。執事でも何でもないものを従えるのを許可するのか。紫乃の周囲を固めている様子から見るに、男の影が好ましくないことが想像できた。上流階級に男女の噂は大打撃がある。
「同行して問題ないのでしょうか?」
「ご当主様からも許可を得ています。秋里さんがいれば、いざとなっても頼りになるということでした」
「そこまで信頼を得られているとは知りませんでした」
「前回、紫乃様が倒れられたときにご報告を致しました。感謝されていましたよ。将樹様はあの様子でありましたが……」
「将樹様はご当主よりも過保護なのですね」
「お出かけの件を知られないようにお気をつけください」
「将樹様とはあれ以来交流もありませんから、こちらから漏れることはないと思いますが。そんな状態で、問題はないと言えるのでしょうか?」
「将樹様と対面すれば面倒事もあるでしょうが、それ以外の面で秋里さんが気にすることはありませんよ。他に気をつけていただきたいことがあるとするならば、紫乃様の体調面のサポートでしょうか」
「……了承致しました」
言われるまでもないことだ。ガーデンへのお出かけなど、どれだけ気を張っていなければいけないのか。想像は容易い。想像以上であるかもしれないと、すぐに呆れや緊張に繋がるほどには。
「じゃあ、本当に一緒に来てくれるんですね! どこの区画にするのか考えます」
そう言って、紫乃は結月さんに園内地図を広げさせる。
俺が了承するかさえ定かではないというのに、行く気満々だったのではないか。そのことに苦笑するこちらのことなどお構いなしに、紫乃は地図へと覆い被さるように計画を立て始める。
俺はただただ情報源となって、その計画案を進める手立てとなることしかできなかった。
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