第11話


 俺が仕事を終え、屋敷へ戻ろうとした紫乃が、立ち上がろうとして倒れた。最初は、立ち上がろうとして失敗して椅子に戻ったようにしか見えなかったのだ。

 だが、結月さんの表情が変わって、それが運動神経の問題ではないことに気がつく。紫乃が倒れる現場に居合わせたことがない。気がついた瞬間に血の気が引いた。溢れ出てきたのは冷や汗で、背筋が凍りそうになる。

 結月さんがすぐに紫乃の身体を支えた。紫乃の顔色は真っ赤になっている。興奮と同じといえばそうだが、瞳まで潤んでいることを見れば、違いは明瞭だった。


「秋里さん、お部屋をお借りしてもよろしいでしょうか」

「あ、はい。俺、私が」


 結月さんの言葉で現実に引き戻される。緊急事態に翻弄される頼りなさと言ったらない。

 すぐに結月さんの腕から、紫乃を預かった。抱き上げると、上がった体温が直に触れる。しっとりとした肌の接触が、嫌な感触を引き上げた。勇み足で離れへと向かう。

 紫乃も結月さんも、ダイニングキッチンより奥にある研究室兼寝室に入ったことはない。その扉を身体で開いて、中へと入る。横たわらせると、結月さんがハンカチで紫乃の額を拭った。


「発熱以外に症状はありますか」


 言いながら、保管庫から薬液を取り出す。自分でも意外だが、このときの俺はいやに的を射た行動を取ることができていた。


「興奮したのでしょう。元が虚弱ですので、ただの熱ではありますが、このようになるのです」

「分かりました。解熱薬を用意します。問題はありますか?」

「いつも紫乃様にご用意いただいている薬でありましたら、問題ありません」

「品質のダブルチェックはできていませんが……」

「それでしたら、こちらをお使いくださいませ」


 そうして、取り出されたのは第一種検査薬だ。俺が使っているものよりも、数段高い検査を行える。恐らく、ダブルチェックの際に使われているものだろう。ありがたいものだ。


「助かります」


 恭しく受け取って、薬液へ検査薬を垂らす。色が変わることはなく、問題はない。自分の製品には自負を持っていた。それでも、こうして安全性が保証されるとほっと息を吐く。

 そうして、紫乃のそばへと駆け寄った。結月さんは俺が薬を与えやすいように、脇へと避けてくれる。結月さんに任せようと思っていたので、ほんの少し怯んだ。しかし、つらそうな息遣いになっている紫乃を待たせているわけにはいかない。

 即効性があるわけではないのだ。早く服用させなければならない。


「紫乃。薬だ。試験管からになるから少し飲みづらいかもしれないが、いいか?」


 紫乃の首裏に手を差し入れて、緩く顔を持ち上げる。紫乃はこくんと頷いた。


「大丈夫ですよ」


 つらそうに見えるが、紫乃は平然としている。これくらいはよくあることなのだろう。しかし、この状況で平然といられる虚弱さは深刻だ。慣れというのは恐ろしい。

 こっちは驚いて焦っているというのに、紫乃はゆっくりと試験管に口をつけた。試験管を傾けながら、嚥下していくのを見守る。紫乃はすべてを飲み干すと、息を吐いた。飲み物を飲んだだけかのような態度だ。

 薬草から作られる薬液には、苦味が強いものがある。解熱薬は苦いほうだ。それに文句のひとつどころか、嫌な顔ひとつもない。

 この程度の苦味は、気にすることでもないのだろう。体力強化のために作っている薬のほうが苦味が強いので、それを常用しているであろう紫乃には朝飯前ということか。

 やはり、俺は虚弱を甘く見ていたかもしれない。

 薬の傾向で予想はできていた。だが、そのすべてが紫乃に与えられるとは聞いていない。薬師としての仕事を受け持っているのだから、他者へ売りに出されることもある。その可能性に賭けていたものが、今や無残にも消えた。

 俺は紫乃の頭を再び枕へと下ろす。


「大丈夫か?」

「大丈夫って言ったじゃありませんか」

「俺のベッドですまない」


 お嬢様を使用人の寝室へ運び入れているのだ。非常事態ではあるが、褒められたことではない。

 謝罪すると、紫乃は相好を崩した。まったく気にしてない。それは切に分かるが、この状態で緩い顔でいられても、こちらは不安になる。

 ちらりと結月さんを見ると、結月さんは苦笑を浮かべていた。やはり、紫乃自身と周囲との認識に乖離があるように思える。


「構いませんよ。気持ちいいベッドです」

「そのような感想はいりませんから、休まれてください」


 切り返しが敬語になったのは、いたたまれなさからだった。それほど自分に敬語が染みついていることは、ちょっとばかり誇らしい。そんなことを感じている場面ではないが。

 紫乃は俺の敬語に眉を顰めた。そんなことを気にしている場合か。


「紫乃様、お休みください」


 このままだと、紫乃が俺に言い返す、という慣れたやり取りが開催されると読んだのだろう。結月さんの忠言は真っ当だった。

 紫乃はむんと唇を尖らせる。


「こうして横になっているでしょ」

「それだけでは紫乃様の体力は回復なさいません」

「眠れないなら、睡眠薬を用意しよう」

「お話しているのはいけないのですか?」

「結月さんが体力を心配しているのだから、休んだほうがいい」

「横になっているのだって、休んでいることになりますよ」

「発熱は横になっているだけでも体力を奪うものだ。君は分かっているんじゃないのか?」


 これに慣れているのだから、状態だって改善方法だって知っていることだろう。確認を取ると、紫乃は唇を引き結んだ。よく分かっているようで何よりだった。それでも、不平を全精力で示している。

 ……ずっとこうであったからこそ、一人で休むことの寂しさや虚しさもよく分かっているのかもしれない。話したがるのも、そうした経験上であれば邪険にするのも可哀想だ。

 前髪を払って額に手を乗せる。これで体温の高さを測れるほど、俺は万能ではない。だが、触れ合いが人の心を解すことくらいは、俺だって知識として想像できる。想像でしかない経験不足は横に置いた。


「つらいだろう? 休めば楽になるから、ゆっくりしなさい」

「……だって、眠くはないよ」

「だから、睡眠薬を渡してもいいと言っているだろ。解熱薬となら、服用しても問題はない」


 医者ではないが、薬師として飲み合わせの知識は得ている。

 正直に言えば、薬だけの取り扱いで言えば、医者よりも薬師のほうが上だ。医者という名がついていても、診断ができるだけで、薬は薬師に相談するというのが概ねだった。なので、この場で薬の処方することも俺にはできるし、問題はない。

 紫乃はやはり不服そうな顔になった。


「何かお話してください。わたしが聞いているだけならいいでしょ?」

「寝物語なんて引き出しはないぞ」

「花学のお話で構わないです」

「分かったよ。目を瞑って休む姿勢にはなれよ」

「分かりました」


 額から手を外して、椅子を引っ張ってきてベッドのそばに腰を下ろす。


「結月さんも座ってください」

「ありがとう存じます」


 こちらの椅子はダイニングキッチンとは違って適当なものだ。人に勧めるためのものではないので、座り心地も悪い。だが、ダイニングから椅子を持ってこいと言いつけるわけにはいかなかかった。

 それに、結月さんは倒れた紫乃から離れないだろう。男の寝室で寝入ることになっている状態だ。それも相俟って、目を離せまい。

 紫乃は、俺の言う通りに目を閉じている。それを見下ろしながら、おもむろに口を開いた。花学のお話、としたざっくりとした枠組みには、少し困る。寝物語でなくたって、俺の会話ストックなんてものは底辺レベルだ。

 花学に傾倒し続けて、他者とのコミュニケーションを削ってきたツケだろう。仕方がないと割り切って、下手くそなままに今日植えた花を中心に話をしていった。

 紫陽花の属性は水である。そこから話を広げて、水属性が何ができるのか。他の水属性の花には何があって、どれだけの差があるのか。ぽつりぽつりと低く零す。意図したわけではないが、眠りの邪魔をしないように、声は潜まった。

 紫乃が聞いているのか。もう眠ってしまっているのか。判断がつかないので、俺は話を続ける。話し始めるまでは、どう話せばいいのか迷っていた。しかし、花学についてならば間欠泉のように話せる。

 思えば、俺だってこうして花学談義ができる友人はいなかった。少なくとも、こうしてだらだらと話すことを良しとするものはいない。試験のためや、庭師、薬師の資格取得のために、効率的な話をすることはあった。

 だが、こうもとりとめのない話を連ねることはない。俺は思いつく限り吐き出すつもりで舌を回し続けた。

 そうして、どれだけの時間が経っただろう。


「秋里さん」


 と結月さんに声をかけられて、俺はようやく独り言にも近い喋りを止めた。


「もう、眠られていると思います」


 途中から、紫乃に聞かせるというよりは自分の考えを整理するかのように吐露していたかもしれない。紫乃が眠っているかどうかに意識を向けることさえ諦めていた。

 結月さんはきちんと様子を見て、状況を把握できているらしい。さすがだ。

 改めて紫乃を見ると、わずかに胸が上下して呼吸音だけが響いている。穏やかな寝息に、俺は肩の力を抜いた。顔色は未だに薄い赤色であるが、寝苦しそうではない。安眠できているのならば、それに越したことはなかった。

 熱が即座に引くなんてことはないのだから、症状が見受けられるのは詮方ない。俺には見慣れぬが、結月さんにはそこまで切羽詰まることではないのか。泰然と様子を見ている。慌てる様子もなかった。


「後は何かする必要がありますか?」

「タオルを貸していただければ……額を冷やしてあげたく思います」

「分かりました。すぐに用意します」


 他人の看病の経験がない。

 寮生活をしていたが一人部屋であったし、クラスメイトの部屋を訪ねた記憶もなかった。部屋の前で立ち話はしたが、それ以上の交流もない。そんな状態で、看病する境遇に陥ることはなかった。

 そうしてやってきたため、気付くための視点が備わっていない。結月さんにしてみれば、額を冷やすなんて初歩的なことに気がつかない俺は不甲斐なさ過ぎるだろう。紫乃の世話係でないとしても、愚鈍であるような気がした。

 俺はタオルに保管庫に使っているエーデルワイスを押し当てて冷やす。タオルに包むと適度にひんやりとした冷気が漂っていた。それを持ってベッドの横へ戻る。


「結月さん、この程度の冷たさはあっても問題ありませんか?」

 差し出すと、結月さんはタオルに触れて目を瞬いた。その瞳には、不思議そうな色が乗っている。

 タオルは冷えているが、水に濡れているわけではない。結月さんは花学を医療に応用する発想がないようだ。そもそも、結月さんは花学に詳しくない。だからこそ、紫乃は俺に花学談義を持ちかけるのだろう。


「エーデルワイスを挟んであります。氷属性があるので、冷感はかなりの期間保ちます。紫乃が眠っている間であれば、問題なく冷やすことができると思います」

「それはありがたく存じます」


 丁寧に答えると、結月さんはすぐに紫乃の額にタオルを置いた。紫乃はぴくりと肩を揺らしたが、目覚める兆候はない。結月さんは紫乃を黙って正視していた。

 寝室に落ちる沈黙は、居場所がない。とはいえ、二人だけを残して去るわけにもいかないだろう。それは、いくら結月さんがいるとしても、無責任というものだ。かといって、結月さんよりも近い位置に置いてしまったままの椅子に、再び着席する根性もない。

 俺は静かに薬師としての仕事に励むことにした。薬草や乾燥させた草花をナイフで微塵切りにする。鍋の下に炎属性のハイビスカスをくべて水を沸騰させ、微塵切りの薬草を投下した。ぐつぐつと煮立つと、薬草の匂いが寝室へと広がっていく。

 結月さんが控えめにこちらを一瞥したが、俺の行動に言及することはなかった。備品の音を奏でながら、俺は黙々と仕事に邁進する。紫乃の心配で焦った心を落ち着けるにも、手元の作業に集中できるのは都合が良かった。そうしてできあがった薬を保管庫へ移す。

 保管庫に向かったことで、エーデルワイスの補充しなければならないと思い立って注文のメモを取った。他にも必要なものを考える。

 紫乃のためを思えば、タオルケットなども準備しておいたほうがいいのかもしれない。クッションは引き続き利用させてもらえるだろうが、それ以外を無償でこちらに回してもらおうなどという気はなかった。

 申請すれば、経費として計上してくれる。その確証があるので、変に依存しようとは思わない。どちらにしても、若当主のお金を頼りにしていることに変わりはないが。

 俺の立てる物音。小さな寝息。結月さんのわずかな身動ぎ。そうした音は、静かだからこそ耳につくのだろう。寝室の森閑さに、俺たちは身を横たえていた。

 紫乃のため、という名目があったかは分からない。だが、紫乃が眠っているからこそ、結月さんとの会話に焦ることもなかった。紫乃のために静寂を保っているのだという体裁がある。そのために、沈黙にあぐらを掻いていた。

 それがよくなかったのか。外側から飛び込んでくる物音に気がついたのは、すぐだ。

 しかし、気がついたときにはもう離れの扉が開く音がしていた。何事だと泡を食っている間に、けたたましい足音が寝室へ入ってくる。

 現れたのは、鮮烈な緑色の短髪に赤い瞳。腰に剣を差した男だ。騎士、剣士、冒険者。咄嗟に浮かぶ職業はあったが、その男が俺の離れに飛び込んでくる理由が思い浮かばない。

 手元にあったナイフを手に取る。構えることはできなかったが、不審者だという警戒心だけは機能していた。

 しかし、


「将樹様」


 という結月さんの言葉で、男の正体が判明する。気を抜いて、ナイフから手を離した。だが、気を抜くには早計だったらしい。


「紫乃!」


 将樹様は俺どころか結月さんすら目に入っていないような速度で、紫乃のそばに近寄る。風圧がごぉっと髪の毛を揺らした。

 ベッドの淵に腰を屈めて、紫乃の手を取った将樹様は紫乃を熟視する。声を上げて飛びついたわりに、その後喚き散らさないところが紫乃のことを慮っているのがよく分かった。それにしたって、威勢のよさが消せていないことに変わりはないが。

 そうして、紫乃が眠っているだけ。熱も落ち着いていることを確認したようでベッドから離れる。その動きのまま、ナチュラルにこちらへと一足で距離を詰めてきた。動きが洗練されている。


「お前、紫乃に無理をさせたのではないだろうな」


 低い声が威嚇するかのように吠えてきた。瞳孔が開いている。


「将樹様、落ち着いてくださいませ。秋里さんは的確に対処してくださいました」

「男の部屋へ連れ込んでおいて的確も何もないだろう、紫乃の部屋は一階なんだから、自室に運ぶこともできたはずだ。自室のほうが紫乃だってもっと安心して休めただろう」

「しかし、発熱ですから」

「しかしも、だっても、何もない! 紫乃を男のベッドに寝かせる言語道断だ」


 この兄が心配していることが体調だけではないことは明瞭だ。どう考えてもシスコンの闖入者に、場は乱されきっていた。

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